見出し画像

「確率論的に負けていくマインド」からの脱出方法2023

第一章 「人生は丁半博打なのか?」

「さあ張った張った、丁張った半張った。」今日も博打場では、旦那衆が身ぐるみ剥がされて泣き寝入りです。

公営ギャンブルやオンラインカジノ、パチンコにパチスロと、貧乏人は無気なしの金を叩(はた)いてしまいます(spend what little money)。詰まり貧者の投資とは投機でしか無く、確率論的に限り無くゼロに近い成功確率に「賭けて」、当然の如く無一文になり、オケラ街道をうつ向きながらとぼとぼと歩いて帰る運命なのです。

「一か八か」と言った丁半博打的思考パターンは正に敗北を常とする大衆のマインドと言えるでしょう。彼らはどうしても「偶然」とか「まぐれ当たり」に過大な期待をしがちです。

第二章 「マトリックスと言う名の牢屋の中で」

全ての人類は、「善と悪」と言う対立する概念をワンセットにしてエンタングルさせています。詰まり、それ以外の思考パターンを採れません。それは善悪と言うマトリックスの内部でしか生きようとしない事を意味しています。

第三章 「正義を振りかざせ」

そして何時も「自分は正しい、自分は正義で正論を言っている」と主張したがります。これを「エゴ」とか自我と呼びます。でも相手を悪と認定出来たのは、自分の中に悪が存在しているからなんです。人間は聖者のフリは出来ても、聖者には成れません。

第四章 「解ったつもりで」

バシャールやエイブラハムを理解したつもりで結局良く解らないのは、「手放す」と言う概念かもしれません。手放すとは、排除や除去じゃ無くて、そこからそっと離れる事なのです。

第五章 「天に棲みたい」

自分と言う意識が、何処に棲息したいのかどうかを選択して行きます。辛い目に遭ってみたいとか、貧困を体験してみたいとか···。地を這いずり回っていたいとか、、、。そんなの望んでませんと言うけれど、実際は望んでいます。自分がかつて罪意識を抱き、その罰を自己処罰感と言う形で実践しているのです。だから此処から脱するには、まず「自分を許してあげる」しか有りません。そうする事で自分が軽く成ります。軽くなったら自分をわざわざネガティブな現実を使って傷めつける必要も無くなります。そして幸せな自分を選択して行けるように成るのです。

第六章 「敗者のゲーム」

ギャンブル、丁半博打、株式投資、宝くじ、その何れであっても確率論的に不確実性を避け得ない故に、「敗者のゲーム」なのです。

日本の証券マンが丁半博打的に株を売買していた時、欧米は裁定取引と言う金融リテラシーを導入し大勝ちしていった。株式投資に必勝法は存在するが、それを百年前後の人生で自分が思い付ける人はまず居ない。ある必勝法はある一時期にだけ通用するが、そのうち通用しなくなる。

第七章 「ベストタイミング、ベストチョイス」

この現実世界はパラパラ漫画に過ぎません。それで自分がランダムにチョイスしていたら、「あー負けた、ツイてない」と必ずなります。

其処で自分の現実を換えて行く必要があります。その為に自分の信念体系を差し替えていきます。先ず「この世は最高最善である」と定義し直します。ここで「そんな馬鹿な、そんな訳無い」と言ってしまうから負けなのです。自分が定義したのですから、現実がどうであるかに関係無く、「最高最善」なんです。其処にボケもツッコミも必要なく、ただああそうなんだと思えばいいのです。つまり、自分が「そうなんだ」と信じるのです。自分の定義が正しいと「信じる」のです。詰まりは、自分を信じると言う事です。

例えば、「今日はツイてない」と言う人がいます。その発言は、今日起きた出来事の結果に対して為されています。詰まり、現実にトラップされた状態て生きています。そうでは無くて、定義として「今日はツイている」んです。現実に何が起きようが、その現実は自分にとって「ラッキー」でしか有り得ません。だって自分がそう定義したのですから。その上でこの信念を自分の潜在意識に練り込んでいきます。人生は最高最善に決まってます、そして全ての出来事はベストタイミングでやって来ます。もし借りに、ピンチがやって来たら「そのピンチはチャンス」でしか有りません。つまり、ピンチはチャンスだし、チャンスは勿論チャンスなのだから、結局人生はチャンスの連続体なのです。そして現実と言うパラパラ漫画を自分の望むコマ数に再編集していきます。たまたま信号待ち無しに信号が青になったら、その度に「ベストタイミング」とつぶやきます。こうして自分の内面と外界をシンクロさせていくのです。もし自分が「ベストチョイス」だと思って行動したのにそれが裏目に出たとしても、落胆はしないでスルーして、直ぐ様次のワクワクに移行して行きます。つまり、「切れ目無きワクワク」を目指すのです。

第八章 「人生はメリーゴーランド」

人生は旅である、そうなの?冒険じゃないんですか?人生とは茨(いばら)の道である、重荷を背負ってとぼとぼ歩く事であると言う人がいます。人生が体験型テーマパークなのは間違い有りません。もしそうだとして、「私は人間がサルへと退化する人生を体験してみたいなあ。」と言う人はあまり居ません。生き地獄を体験するよりも、天国での生活を体験してみたいと言うのが、人情と言うものでしょう。

同じ楽園で暮らすにしても、一旦楽園から追放されて苦汁を味わってから、再び楽園に戻った方が感慨も一入(ひとしお)なのです。それと同様に、一旦神との関係を断ち切り、孤独と苦難を経験した方が、より神と仲良しになれる訳です。既存の宗教に於いて、神とは「他者としての神」に留まり、本当の神では有りません。では本当の神とは何でしょうか?本当の自分、宇宙とか愛とかエネルギーと呼ばれる何者かなのです。だから、本当に胸の時めく知的好奇心とは、宇宙の探求では無くて「神の探究」なんです。だから、人生とは神生へと繋がる果てし無き悠久の旅路、「神への帰還」なのです。無神論者が何時の間にか神学者になって、ミイラ取りが魅せられて何時の間にかミイラになってしまったりするから人生って最高に面白い訳です。

第九章 「愛の反対は憎しみじゃ無い」

人間社会では長い間「愛の反対は憎しみだ」と誤った教えが広められました。同じ人種同士民族同士で争い合い殺し合い、中々「和を以て貴しとなす」と気づくことが出来ないでいます。

人々が憎しみ合うことを止めた時、集合意識に感化されて、新しいフリーエネルギーが発見されます。詰まり今現在、真理や真実の波動は、憎しみや怒りの波動に覆い隠されて、表面化出来ずにいる訳です。



 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?