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豊かさを呼吸する 2

第一章 「生きるとは何か」

生きるとは何でしょうか?生きることに疲れてくると、「あ~」と溜め息ばかりになります。その結果力無く息を吐いて、「もう疲れた、死にたい」と呟いたりします。プラーナ(生気)を吸い込めていないのです。

「生きるとは、息する事なのです。」「宇宙は生きている。」「地球は生きている。」「大地は生きている。」その「生きている。」と言うのは、息も絶え絶えに生きていると言う意味では有りません。「宇宙は、何時も活き活きと深呼吸しているのです。」どうしてかと言うと、それが生きていると言う証だからです。だから一旦死にかけた人を「蘇生」させるには「人工呼吸」と「心臓マッサージ」が必要なのです。

地球人は戦争を繰り返しては、その大地を砂漠化させ、遂には大陸を水没させて、その文明を終わらせてしまいます。何故そう成ってしまうのでしょうか?こうしたらこの紛争を終わらせられると打った手が、ことごとく裏目に出て、却って戦火を拡大させてしまうからです。人間ってアホなん?そうでは有りません。自分の心の中に「絶対的な安らぎ」を創造できないだけなのです。「心の平安って大事だよ」と戦争好きの各国首脳に言ってあげたいです。

「争いの行き着く先は消滅です。」人類はその事に気づく為に、苦悩している訳です。

さて大地が息を吹き返したならば、今砂漠化している地域が、緑に覆われていきます。それには、地軸の変動と言った外部環境以前に、人々の意識変革つまり「和を以て貴しとなす」を首脳たちが悟る必要が有ります。今の顔ぶれでは先ず無理かも?ここで意気消沈していたら、人類全体の運気もダウンしますから、各自各様のハッピー追求で運気上昇をキープして行くしか有りません。

第二章 「貧しい理由」

「貧しい者は幸いである。」聖書にはそう書いてあります。これを正しく解釈できる人は少ないから、十中八九誤解釈してしまいます。それで信者も聖者も「清貧」に走り、「献金病患者」に堕していく訳です。

宇宙は貧困や枯渇を礼賛したりしません。資源の枯渇は、人間の「心の貧しさ」つまり「争いたいマインド」のせいなのです。

「世界と言う現実は、人の心の貧しさに起因しているのです。」貧しいから奪い合い、盗み合い殺し合う。武器の供与は心の貧しさの表れです。

さて宇宙が大きく深呼吸を繰り返すことで、生気は宇宙全体に行き渡り、星々も太陽も活気に満ちて、地球は緑に覆われて、水と空気も浄化されます。

肉体身体には、新陳代謝つまり血液循環とヘモグロビンを使った酸素の供給、更にはリンパ管を通した癒やしの配達が不可欠です。腸内環境が良くない人は、そのイライラから地球環境を破壊しがちです。ソーラー発電をクリーンエネルギーと称して、執拗に森林破壊を推し進めています。人間のやっている事は、何処か歯車が狂っています。

第三章 「宇宙の成り立ち」

この宇宙は、五十音順に創られました。「あ」の次は「い」ですね。「あ」と「い」を足したら「愛」なのです。つまり「宇宙は愛で出来ている」のです。宇宙はピラミッド構造で出来ているのでは無くて、フラクタル構造で出来ています。だからピラミッド構造は、何時も賽の河原みたいに常に風化し、瓦解する運命に有ります。かつて会社の寿命は30年と言われたのも、そうした組織の短命さを表す表現だった訳です。

さて宇宙は丸いのか三角なのか、丸いと循環出来て永続可能になります。フラットアースが正しいかどうかは別にして、床が球面だと落ち着かないので、床や大地は矢張りフラットな方が落ち着くのかもしれません。

第四章 「清貧から清富へ」

人は五感を通してこのマトリックス世界を「現実」と認識してしまいます。現実を認識してしまうから、その結果「自分は罪深い」「自分は生きる値打ちも無い」と言った自己否定局面に必ず遭遇し、貧しい自分を是認して生き始めます。そしてこの際の標語は、「清く貧しく美しく」だったりします。「貧乏はおはこです。」と困窮を好きになろうと努力したりもしました。こうして「貧しさの全体像」が視えてきました。つまり貧しさとは、自己否定·自己犠牲·自己処罰であり、その結果としての他人批判·他人への嫉妬だったのです。利他主義の名の下に、自己犠牲を強いる寄付や献金が、信者を貧困に留め置きました。それ故信者を献金地獄に追い込むのを辞めた時、宗教やイデオロギーはお払い箱に成りそうです。皆んなが豊かさを追求してもOKなのだと気づくのが、人類の使命なのです。各自が自身の豊かさを満喫して生きる時、殺し合いなんて馬鹿らしくて演ってられません。 

支配者たちはメディアを使って光熱費の上昇が家計を圧迫し、庶民が「持続可能な底辺」で有り続けるよう仕向けます。一般庶民が自身の豊かさに気づくのを、全力で阻止したいのです。人類って容易に洗脳可能な意識体、お人好しの意識体なのです。だから逆にこれを逆手に取って、各人が自身の潜在意識を好きなように洗脳し、催眠術にかけて、望む現実を創り出せばいいのです。

他人や社会やメディアと言った他者に、掛け替えの無い「一つ切りの自分」を作らせてはいけないのです。さもないと人は夢遊病者のように、ゾンビのように、生きる屍みたいな一生を送ります。「気づき」が無いとそうなってしまいます。だから「自身の豊かさに気づく」必要が有るのです。

第五章 「貧乏礼賛」

社会と時代が全体として貧乏だったならば、居直って貧乏を礼賛するしか有りません。そうした貧困の時代を潜り抜けて、今は皆んなが豊かに成ってもOKな時代が到来しました。人は此れ迄現実を通して自分たちの貧しさを「現実認識」と言う形でインプットして来ました。そうしたインプットの仕方では、「豊かさをインプットするのが難しい」かもしれません。此れ迄ずっと「自分は貧乏なのだ」とインプットし続けてきたので、豊かさは全くインプットして無いのです。それゆえ自分の信念を書き換えていく必要が有ります。例えば、「自分は無限に豊かです。」、そう言って潜在意識を書き換えていかない内は、潜在意識は初期設定として、「私は貧しい」「私は豊かさを受け取るに値しない」と思い込み信じ込んで、そうした現実を眼前に創造し続けてしまいます。だったら最初から書き換えといてくれたらいいのに。いや各人が自分自身で「書き換え方を習得していくのがこの人生の目的」なのです。潜在意識の書き換え方を習得しない限り、その人生は他人や社会に自由に書き換えられてしまい、詰まらないどうでもいい人生で有り続けます。どうでもいい人生だとあらゆるネガティブ、つまり事故ったり、銃で撃たれたり、ガンになったり、自己破産したりとネガティブてんこ盛りになってしまいます。

つまり人生って、単純に自分の内面の反映、鏡に自分を写しただけなのです。宇宙は、自分と言う観測者が居ないと存在しません。そしてその観測者に「愛が欠落していると」宇宙は単に宇宙戦争の舞台でしか有りません。

貴方が創る宇宙は、相変わらず戦争に次ぐ戦争ですか?それは人間の一段下の修羅世界のレベルなので、天に移行して神生を堪能し満喫する嬉しみを得る事が出来ません。

「貧しさ」のバリエーションとして、貧困、困窮、金欠、飢餓や飢饉、貧血やうつ病は派生して来ます。つまり総じてネガティブなのです。だから人生を好転させて楽しく生きる為には、ネガティブマインドの書き換えが必須なのです。

第六章 「豊かさをインプットしていく」

具体的には、自分の無価値感を正してあげます。人間は、「えー、私は無価値感なんて懐いてません」と言うかもしれませんが、無価値感を懐いているからこそ今現在富豪じゃ無い訳です。だから必ず書き換えは必要不可欠なのです。そう言う訳で、「私は豊かさを受け取るに値する存在です。」「宇宙は私に豊かさをくれます。」「私は豊かさを受け取る器です。」と潜在意識にアファメーションをインプットしてあげます。潜在意識がそれをまんまと信じ切った時に、それを反映した現実を写し出されて来ます。インプット回数が足りないと、現実は訂正されません。

第七章 「ベストタイミングを信じます」

「現実は何時だってベストタイミングでやって来る。」逆に言うと、そうで無い人生は、バッドタイミングを自分が信じているからそう成るのです。「ツイてない」とか言ってるからそう成る訳です。肉体に身を置くエゴの自分が次の現実の一コマを自身でチョイスしたと言うより、ハイヤーマインドにお任せしたのです。だからわざわざ「ベストタイミングでお願いします」と注文しないと、ベストタイミングで無い現実が提供されて面食らう訳です。

現行の人間界は、遺伝子の偶然や突然変異で進化したと言った戯言を信じる愚かな学界に支配されています。人生百年時代に、猫だって30年は生きたいのです。旧約聖書には誰が何百歳生きたと書いてあります。生命エネルギーが効率良く循環すれば、長寿なんて当たり前で、短命がレアケースなのです。寿命や時間は、定期的に伸び縮みする生き物なのです。つまり自分の巡航速度に比例した相対的存在だから、太古も近未来も全て今ここに有り得る訳です。肉体とは意識が纏う衣服だから、時が来たら脱ぎ捨てて、新しく新調すればそれで良い。死ぬべき理由が見つからない時、その存在は不死でいるのです。そして不死で居る時に、不死である理由も見つからないから、この辺で一旦脱ぐかと肉体を脱ぎ捨てる訳です。短命化の理由は、自身の中に「悠久性を思念し得なく成ったから」です。因みに戦争は短命化を促進させます。宇宙だって何百億年も生きたら、もう歳かなと感じ始めます。生きたい自分と死にたい自分を秤にかけて、生きたいと言う情熱をどうやって見つけ出しうるのでしょうか?苦しいと生きる気力も失せます。苦しいから死をチョイスするのです。だから不死とは安楽と喜びの追求なのであり、パッションを掻き立てる必要が有るのです。

今、自分に問い掛けてみます。私は今豊かさを呼吸しているだろうか、其れ共「貧しさ」や「息苦しさ」や「生き辛さ」を呼吸していないだろうかと。世界を認識してしまうから、不快やネガティブを感じたのではないかと。だとしたら、世界なんか認識しない方がいいのです。「苦しき事のみ多かりき人生」を、「楽しき事のみ多かりき神生」に替えて行けるのは、自分自身だけなのです。

第八章 「堕落のその先に」

例えば、大天使が堕落して堕天使になり、今では落ちぶれて人間に堕したりしても、話はそれで終わりでは無くて、其処からまた天に帰る、その新たなストーリーを見つけてあげるのが愛なのです。

武器を欲しがる悪魔に、武器を供与してあげるのは、多分愛では有りません。

無神論者とは、神を見失った哀れな生き物で、彼らと一緒に神を見つけてあげるのが思い遣りなのです。

人間は家畜を食べ、鬼や蛇が人間を食べる。生存競争とか弱肉強食って、かつて鬼同然だった人間にとって、当たり前の朝飯前です。だから鬼や悪魔を責めるのでは無くて、例えば鬼子母神を見習って、「鬼を神にしてあげる」お手伝いをしてあげるのが、愛と赦しの力なのです。

その昔、「東京には空が無い。」と呟いた人が居ます。都会の空気は少し汚れているのかもしれません。淀んだ空気は、貴方の肺でもって浄化してあげましょう。田舎者は「花の東京」とか言って都会に憧れました。都会には「人·物·金」が集まるからです。それと同時に、その分「緑は喪失」します。緑の喪失とは、実は「生命力の減少」なのです。鎮守の森を再開発で更地にしたら、不動産業者は一儲け出来ます。

生きるとは息することです。プラーナ(生命の息吹)を吸い込むことです。単に酸素を取り入れることでは有りません。今の自分の現状が、庶民とか底辺と決めつけて四苦八苦しているとしたら、それは恐らく「貧しさを呼吸して」いるのです。

愚痴を聞いてくれる知人や友人を欲しがる人が居ます。承認欲求が強い人もいます。自分を心底愛せていないとそう成ります。豊かさの第一歩は、自分への愛情です。自分を責めないし、罰しない。そして他人を責めないし、罰しない。悪魔や悪人を許してあげます。他人のアラ探しや他人批判、或いは他人をジャッジする、そうした事をついやってしまう自分、それが「自分の貧しさの原因」でした。

第九章 「愛の観測者」

「不平不満」の対極は、「満足と感謝」です。だからコントラスト(対比)を使って、その対極に飛べば、其処に正解が見つかります。日々満足して生きる。今ここに喜びを見出す。今生きている事に感謝出来る自分でいたい。まあそれが理想だとしても、現実はついつい世間に駄目出ししたくなります。それは結局自身への駄目出しでも有るのです。

今この瞬間に大満足出来る。そんな人って居るのでしょうか?物理学者は、二重スリットの実験で自らを「観測者」と定義しました。その「観測者」って「傍観者」ですか、それとも「離婚調停中のイライラしている自分」ですか?単なる「観測者」から「愛の観測者」へとパラダイムシフトした時に、フリーエネルギーが視えて来るのかもしれません。







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