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生物多様性から神の多様性へ

生物多様性は認めるが、多神教は認めない。なぜなら一神教でないと戦争を引き起こせないからである。人類を滅亡させるには、一神教同士の最終決戦に持っていくしかない。イワシの頭も、カマドの神も、皆んな神様なんじゃよ、なんて言ったらこの世に争いは無くなってしまう。それは人類を滅亡させたい一神教の連中には都合が悪い。異端許すまじ、異端は処刑だ、天に代わって虐殺よ、そうしないと世の中平和に成ってしまう。汝の敵とゴキブリを愛せ、人類にそんな事は実践不可能だ。人間はゴキブリを見下し軽蔑する事で、自分は万物の霊長だと威張って居られる。一神教か、さもなくば多神教か、人間知性は二者択一しか出来ない。光の性質にしても、光は粒子か波か、二者択一で揉(も)めた。波でもあり、粒子でも有る。人類は、そういう考え方は苦手である。一神教でもあり、多神教でもある、一即多教はまだまだ認知不能である。汝の見下す者を崇めよ、なんて言ったら、何言ってんのと笑われる。ディスる代わりにリスペクトしてしまう。このコペルニクス的方向転換は、自身の価値観の脆弱性を指摘している。生物多様性は神々の多様性、つまり一即多の無限性をこじ開ける。無神論のただ中に人類は、神を見つけ出せるかもしれない。無神論から愛へ、無神論か有神論かの二者択一でない新しい宗教の形、新次元の宗教は宗派争いに興味がない。探し求めていたモノは、私自身の中に居た!




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