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未来は過去化する、 「記憶と忘却のゲーム」

人間には未来を予知する能力が無い。だから折につけ「これから世の中どう成って行くんでしょうか?」と不安に駆られたりします。

それで占い師にお伺いを立てるとか、霊能者に頼るとか、或いは予言者の予言をそのまま鵜呑みにしてしまう。そのやり方は多分間違っています。

未来を予知とか予言で知ろうとする事自体が、的外れなのです。つまり未来は知ろうとするべきものでは無くて、自分たちが創り上げて行くべきものなのです。

未来を創る際参考になるのは、「過去への回帰」です。それは懐古趣味に耽る事では無くて、「懐古とは開示」でも有るのです。

現在の首都は東京だが、その前は京都だったし奈良だった。じゃあ奈良の前はどこ?

国家と言う屋台骨がグラついて来たら、人々はパニックになります。パニックにしたい人だっています。首都が首都機能を失ったら、取り敢えず昔有った場所に帰るしかない。しかしその前に、その昔国家って有ったっけ?関八州とかの幾つかのブロック単位だったっけ?

インドネシアの首都のジャカルタは、首都移転を決断したと言います。果たして上手く行くのかな。

もしも万一ライフラインが、切断されたら困ります。でもライフラインを当てにする時代は、もう既に時代遅れかもしれません。今はポータブル電源だって数十万で手に入ります。電力会社を当てに出来なく成った時こそ、フリーエネルギーの出現チャンスなのでしょう。

日本は本当は単一民族の国家じゃ無くて、多民族国家です。何人だろうが国造りに協力するなら、それは日本人と言えます。逆に遺伝子的に日本人のはずなのに、日本と言う国家の破壊に勤しむ人たちは、日本人とは言えません。国家の支配層が皆んな売国奴だと、その国家は崩壊するしか有りません。国家が滅亡したら、混乱して国民は飛んでも無く苦労させられるがそれも自業自得です。今現在国家は世界に196個あるが、国家も細胞分裂したり新陳代謝したりして、百個が千個になり1万個になってもいいし、今は大国も分裂したがっています。

今フランスに移民して来た人たちが、フランスの国造りに情熱を燃やすとは、正直思えません。むしろ国家解体へと導きそうです。

人類のルーツや日本のルーツは何処まで辿るかに依ります。文字以前は文明じゃ無いという人もいるし、縄文土器は人類最古の文明でしょと言い張る人もいます。旧約聖書以前、縄文以前に既に人間はあちこちで生活し、四大文明以前からその土地土地で生きていた。縄文時代は、一説によると数万年続いたらしい。臨死体験した人が言うには、数百万年も続いたとか。そうなると妄想とか都市伝説も、どちらも真実と認定されて来て訳が分からなくなります。確かに海外からの流入と合流で日本人なるものが出来上がりました。合流して一つに成った現時点を、単一民族的な国家の様相と言うのでしょう。

流入して来た民族が、道徳観や倫理観に影響を与え得るにしても、宗教観や神観の方がより重要なファクターなのです。

中国は今でも儒教の国で、「公(おおやけ)」が存在しません。つまり家族主義と身内主義から成る。これを共産主義と言う外来思想で無理矢理一つにまとめ上げる「社会実験」を演っています。

日本はその逆で、「おおやけ(公)が先ず有って」その下に家族や個人がぶら下がる。中国と正反対です。

グローバリストたちの社会実験が、共産主義であり、EUなのです。EVも社会実験でした。

日本の神道は、一神教でも無くイデオロギーでも無い民族気質としての宗教性、それは自然崇拝のような「アニミズムの復権」のような精神性、つまり唯物論的科学からの脱皮を意味します。

唯物論的科学を「幼児期の科学」と考えれば、よりまともな科学とは量子力学的色即是空的な世界観、言い換えると「より宗教チックな精神科学」もっと言えば、「薬と手術では無い未来的医療」になって来ます。

旧約聖書も新約聖書も、それらが出来てもう数千年経ったから、そろそろ書き換える時期が来ています。

人体の造り方を記憶しているのが、遺伝子DNAです。DNAはその際記憶媒体であり、先祖の伝承です。

そして前世の忌まわしい記憶を今世でいちいち思い出してたらやってられないから、一旦記憶を消去してからオギャーと生まれて来ます。逆に言うと、前世のトラウマが少ない場合、前世の記憶は消去されなく成ります。

暗記が苦手な人にとって、中間テストや期末テストは苦痛でしか有りません。でもこれを「楽しい記憶ゲームなのだ」と捉える事が出来れば、一転してワクワクに変わります。だって昨晩暗記したことしか出題されない出題範囲の限定は、高得点のチャンスでしか無いのです。

その昔トイレに落書きしてる人がいました。そこには「勉強って暗記だったのか」と何か悟ったようなセリフが書かれていました。割り切るのも一つの生き方なのです。

さて記憶喪失とか認知症とか健忘症って何でしょうか?脳内物質の過不足とか脳梗塞予備軍、或いは脳の萎縮も考えられます。

「過去の断捨離」は、能動的記憶喪失と言えるかもしれません。

その一方で、受動的記憶喪失が認知症なのかもしれません。「あの人だけは許せない。」それはその記憶を「握り締めて放さない」のです。辛い出来事や怒りを外に出せなくて、我慢して呑み込んで生きていると、自分の中でそれらの怒りと哀しみが満タンになって一気に噴出して、抜け殻みたいなボケ老人になり兼ねません。つまり認知症患者には隠された怒りや悲しみや恐れが隠されているのです。若しくは何か心配事や不安や「死の恐怖」が、痴呆を選択させたのかもしれません。 

ところで人間は、「自分の脳が記憶している」と思い込んでいます。本当は脳で無くて、「時空間が記憶しています。」つまり空間自体が、「記憶媒体」であり、水も空気も大気も大木も実は記憶媒体なのです。そして水晶も勾玉も記憶媒体なのです。

もしも宇宙が巨大な記憶装置だとしたら、小さな自分の脳に記憶を無理矢理詰め込む必要は有りません。こうして高次元存在は、自分が記憶することを辞めて行きます。つまり全員が記憶喪失者で、必要な時にだけアカシックレコードから、その都度ダウンロードして来るのです。その方が便利ですね。

「全ての記憶と情報は今ここに有る。」

其処に気づくことで、詰め込み教育から卒業出来ます。つまり微分方程式を解いてないのに、答えが先に思い浮かんでしまう世界です。

意識とか魂は、記憶こそが自分たる証と思いたい。だから前世までの全記憶を抱え込み、気が重く成っていく。その全記憶を手放しても、自分は無くなりません。むしろ軽くなって、清々しく生きられます。

記憶と自分の関係性をどうするか?それは宇宙に存在する全意識体にとっての問いかけとなります。前世までの全記憶を手放した時、人は全知に成れるのです。





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