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大人の思考と子供の思考
※以下に書かれていることは全て個人の所感である
世間一般でいう大人と子供の間にはさまざまな差異が存在する。しかしその差異を端的に表す表現は私の知る限り数少なく、そしてそのどれもがバイアスがかかっている表現であり少なくない例外が存在する一般性の無い表現であるように感じる。故に自ら納得でき一般性があると思える表現を模索した。
子供は欲求で行動し大人は利益で行動する
子供が欲求により行動するという事は万人が認める事であろう。好奇心のままにあちらこちらへ移動し心惹かれるものがあれば蒐集し気に入らぬことがあれば泣き怒り楽しければ笑う。
それに対して大人はどうだろう。生活のためにやりたくない事もしなければならないと言う一方でやりたいからやっているんだと言う事もあれば義務であり責務であるとも言い、世のため人のためとも言う。
これではこの「大人は利益で行動する」というのも一般性は無いじゃないかと思われてしまうだろうが私はこの大人の行動理由の根底にはすべて利益が存在すると認識している。利益を得る対象や利益の内容がそれぞれ異なっているから別物と認識されやすいだけなのだ。
他者に従うことによる利益
1. 認識というものは知識経験が重なることで層状に変化するものである。例えば食事という行為一つとっても空腹という不快感を解消する手段から快楽を得る手段、娯楽目的に文化的行動、他人との親密感を向上させる行為に宗教的儀式まで様々なケースが存在するがそれぞれ別の前提となる知識経験を積まなければそういった要素があるという事は認識出来ない。しかし大抵の子供はその前提知識経験を理解することなく行為のみを場合分けで教えられる。その際行為をする理由自体を教わらなかったり自分の力で理由を思いつけない場合は教えられた行為自体は「そういうもの」として処理されこの行為に対する思考は停止し常識やマナー、あたりまえといった認識になる。
マナーというものはいわば相手を不快にさせないために作られた共通ルールでこれを守る限り自分に非は無いというものであり、逆に言えばマナーを守っている相手に対して不快に思ったならばそれは不快に思った側に非があるというものでもある。すなわちマナーを守るという行為は自身に正当性という利益をもたらす行為である。ルールや常識、上からの命令といったものも言わずもがなである。この点に関しては社会人であれば納得する人も多いであろう。
2.
「情けは人の為ならず 巡り巡って己が為」という諺を聞いた事ある人は多いだろう。他人に親切にするとそれがいずれ自分にも帰ってくるという意味合いだが他人に親切にする存在というものは言い換えれば他人に利益をもたらす存在でもある(この場合は金銭的、物理的な利益もだが精神的な利益も多分に含まれる)。そしてその利益をもたらす存在、いわば他の鶏より多くの卵を産む鶏に対して採るべき行動とは潰して肉にするのではなくより多くの餌を与えより多くの卵を得る事であるのは明白であろう。そして生まれた卵が孵ったならばその孵った鶏がまた卵を産みと繰り返してその養鶏場は豊かになっていく。養鶏場を人間社会全体に置き換えれば社会全体に対して奉仕することによって自身の存在価値を証明し社会において安定した身分を確保するという利益を得ることが出来る(そんな事は起こらないし人間社会はそんなに単純じゃないと言う人もいるだろうがこう考えて奉仕活動をする人もいるし逆に違うと考える人は社会へ奉仕する活動なんてしない)
利益は現実を生きる上で必要なもの
やりたい事をして生きていくというのは最近の若者の間でのキーワードであると思うがその前提となっているのはそのやりたい事が収益を発生させるかどうかである。現在では収益を発生させる手段は数多く存在することが広く知られているが、かつてはバイトで食いつなぎながらミュージシャンを目指すといった例のように夢を追って成功するまで不安定で辛い思いをするか夢を諦めて安定した職業に就くかという二者択一であった。この構図はドラマなどでもよく見る。夢とはすなわち欲求そのものであり安定した職業というのは分かりやすい利益であることから私の言う子供と大人の行動基準と合致する(フィクションを論拠の一つにするのはどうかと思うがフィクションが受け入れられるにはある程度の共感と説得力が必要でありそれを醸し出すためには現実に即した部分が必要になる)。
ここで一つ重要な要素を述べるが「やりたい事をすることは利益である」という事だ。これは単純にやりたい事をやったら気持ちがいいという事から来ているがそれはすなわちストレスの発散に繋がり心身の健康に繋がる。逆にやりたい事が出来ない、やりたくない事をしなきゃいけないという事はストレスの蓄積に繋がり結果的に不利益であるという事は現代人ならば皆認める事であろう。
欲求と利益というものは全くの別物であるため比較する事は出来ないが欲求同士、利益同士であれば比較する事は可能である。前述のミュージシャンの例の場合夢をかなえたい、追い続けたいという欲求を解消する利益と安定した職業という利益と諦めるという不利益で比較する事となるだろう。
尚現在においては安定した職業という概念自体が崩壊しリスクが高まっていることから定職に就くことで得られる利益自体が目減りしていることに加え、収益を発生させる手段の多様化によって両者の利益格差が縮まったことで好きな事をして生きていくというキーワードに脚光が浴びたのだろうと予測する。
欲求で行動するという事
前述のように欲求を解消することは利益であるがその逆、利益を得たいと思って行動する事は欲求に従って行動する事そのものである。例として挙げるならば先ほども述べたように夢に向かって努力する事、情動のままに行動する事、考えることを放棄するなどといったところだろうか。
情動のままに行動することは決して悪いことではない。強い信念に従う、名誉と栄光を追い求めるという事は否定されるべきではないし、そもそも欲求というものは人が生きるためにはこれが必要であるという本能からの訴えである。人はパンのみにて生くるにあらず、欲求を満たし心身を充足させたいというのは全ての人の願いだ。
利益とは欲求を満たすための手段
行動することにより得られる利益の内容には様々なものがある。金銭や物品などの物質的なものから他者との間の信用信頼自信評価肯定感などの精神的なものがあるが両者ともその場で消費されるものと長期にわたって所有できるものに分けられる。
長期にわたって所有できるものは様々なものに変換する事が出来る。金銭は信用に変えることが出来るしその逆も可能である。投資などをしたら総数を増やすことも可能だ。そしてその利益は食料の購入などのサービスの享受、すなわち欲求を満たす行為にも使用可能。そう、利益は最終的には全て欲求を満たすために使用されるのだ。
大人と子供はシームレス
最終的に欲求を満たすためとはいえ利益を得るために欲求に反する事をすることは難しい。逆に言えばどれだけ利益を得られるか、どれだけ欲求に反することが出来るかが私の論における大人らしさ、子供らしさとの違いというものであろう。しかしそんなものは人に拠るだけでなく環境や状況気分状態によっても千差万別に変化するものであり、どれだけ利益を重視するか、どれだけ欲求に従うかなんてものは本人の匙加減次第である。同じ人物であってもある側面で言うと大人らしかったり子供らしかったりするというのはこういう事なのだろう。
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