見出し画像

音楽理論とオカルトな生き方

平素よりお世話になっております。高島です。

SNSを始めとして、膨大な情報に触れながら生活していくと、どうしても強い言葉、強く過激な表現ばかりが目立ってきます。
仮に、客席にモヒカンの男がいれば最初に目を引くのは間違いなくソイツで。みんながどんなに素敵なお召し物を着ていても、これはどうしようもない事。

じゃあみんながモヒカンに、はたまたアフロヘアにすればいいのか、と言われればそんなわけはなく。それぞれの人生、思い思い好きな恰好をすればいいはずです。

ここで個人のミッションと照らし合わせてみてじゃあ自分はどうしたいか、を考えるとやはり「小さい言葉」に寄り添っていきたい。
本来なら埋もれてしまうような声を見逃さないよう、じっと静かに、慎重なスタンスを取り続けます。
それは完璧を目指すから、に他なりません。

音楽用語では「強弱記号」と呼ばれるものがあり、たとえば「f(フォルテ)=強く」、「p(ピアノ)=弱く」と定義されています。

画像1

引用:https://www.weblio.jp/content/%E5%BC%B7%E5%BC%B1%E8%A8%98%E5%8F%B7


一般的な解釈では問題ありませんが、これを言葉のまま実演奏に持ち込むとあまりうまくいかないことが多い。なぜか。

「弱く」音を出すのではなく「小さく」音を出す。その音も理由があって配置されているので、存在が「弱く」てはいけません。
肌感覚では「f(フォルテ)=大きく」「p(ピアノ)=小さく」が正しいように思えます。
小さく、コンパクトに音を出すことでその役割を果たします。


最初のモヒカン話に当てはめると、強く過激な表現の対にある「弱い表現」。
仮に弱くとも、そこには必ず「一人の人間」が存在していて、その人間自体は決して「弱く」はない。
目立ったなにかと比べてみれば「小さい」存在かもしれないが、そこには誰かがいる。
その事実は忘れないように気を付けています。


もう少し掘り下げていくと、演奏には「ダイナミクス」の表現があります。
迫力のある演奏、みたい認識で大丈夫です。

ロックバンドにおいて「音量がバカデカい!ヤベードラマー!」は重宝されると思うので、自分もそうあれるよう日々研鑽してますが、人間が出せる音量には限度があります。
肉体的なハンデはあったとて、屈強な外国人がヒョロヒョロな自分と比べて実寸二倍のボリュームを出せるか、というと多分そんなことはないはず。

ではどうやって迫力のある演奏を演出するか、というと「小さい音をどこまで小さく演奏するか」、これに尽きます。
DTMにおける「ベロシティ」の概念が使えそうなので引用してみます。


画像2

引用:https://en.wikipedia.org/wiki/File:Dynamic%27s_Note_Velocity.jpg
ベロシティとは??
DTMでは打ち込み音の強弱を「ベロシティ」と呼び1~127の数字で強弱を表します。
「数字が大きいと音量も大きく、小さいと音量も小さくなり、数字が0で無音になります」
引用:https://sleepfreaks-dtm.com/produce-recipe/velo-drums/


音の大きさ・強さの最大値が「127」で、普通に叩いて「90~110」あたりをウロウロしてます。ここで「p(ピアノ)」が登場します。

通常時が「90~110」なので下げて「60」ぐらいですが、ここで僕は「30~40」ぐらいまで挑戦します。

ここまで小さくすると前述のように音が細く、弱弱しくなる危険性があるので、慎重に丁寧に叩きます。
荒々しい、いわゆる「ロック」とはかけ離れていくので使う機会はあまりありませんが、上手くいくと立体的で迫力のある表現になります。


小さい音を扱うことで演奏の表現が高まる。
では、小さい声に寄り添うことでなにが起きるのか。

音楽は時間の芸術、立体的で完璧な音楽を目指しているんだと判断できます。
同時に、立体的で完璧な人間を目指しているとも言えます。

なにを言っても言葉では虚しく、故に音楽を用いてなにかを伝えようとしていた、
誰かに伝えようとする、その行為を通して一体自分が何者であるのか、どういった人間であるのかを探求していた、
そしてこれからも続けていく。
そういうことになってくるんだと思います。

ちなみに、完璧な人間や、完璧な人生はどこにも存在しない。
誰もが間違ってるし、誰もがイカれてておかしい。

それでも完璧を目指していく。
存在しないものを追い続けているのはオカルトと一緒、
デカダンスでロマンチックで最高。

以上になります。
それでは引き続きよろしくお願いいたします。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?