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高島的「社会学」

僕は本当に人の影響を受けやすい。

千鳥の番組ばっかりみていたら「○○じゃあ!」とか「それは○○なんよぉ~」とか言ってるし、インスタでテキトーに演奏の動画を観ていて、ライブ見返してみるとまんま同じフレーズを叩いてたりする。擬態するのが上手、というと聞こえは良いけど場に馴染むのは割と上手な方。

そもそもはというと、息をするだけでも大変なタイプで、20代前半はとても苦しかった。今もあまり状態は変わってないけど当時よりはマシである。
ちなみにボイトレの先生に「一般成人男性の半分しか肺活量がない」と言われたことがある。だから声が小さいし居酒屋でのオーダーが一発では決まらないが、これは別の話。

この苦しい状態をどうしたもんかと画策し、
「そもそも“辛い”とか“苦しい”とか思ってる自己そのものを考えなく、そして捨ててしまえばいいのではないか?」
という大暴論を提唱し、実践。少しはまともになった。
弊害としては「やりたい事」とか「目標」とかを見失ったこと。これはロジカルに考えることで解決済み。大量の時間を消費してしまった。


精神衛生を司るのに重要なのは「社会」

「だってぇ、人は一人では生きていけないし~」っていう生ぬるい話ではない。俺は徹底的にシリアス。

駅員さんにいちゃもんつけてる人は大概高齢者であることが見受けられるし、エレベーターでベビーカーを押してる母親を無視して我先に、と押しのけていくのも大概そういった人たち。
おいおい冷静になってくれよその母親とか、成長していった子供がアンタらの生活を支えていくんやぞ、とどうしても僕は冷めた目で見てしまいます。もちろんそうじゃない、心の優しい(純等な)人もいます。ちょっと悪口言っちゃった、ごめんなさい。

おそらくこうだろう。
定年まで会社で勤め上げ社外の取引先もあり、飲みに連れていける部下もいた。多くの時間を「職場」で消費し家族ルールもわからないまま、急に社会から分断され行き場のない気持ちだけが残る。
それが自分だけしか見えなくしたり、理解しえない他者への怒りに転換されたり。

更に、僕の友達にこういう人がいた。会社では友達はいない、飲みにもいかないし休日は家でひとり映画を観たり、たまに買い物に行く。その全ては「一人」がいい、と。
別に僕はそういった価値観を否定はしない。そういった生活スタイルもあるし、当然理解もできる。

では何故、聞いてもいないのに、堰を切ったように僕にそういった話を聞かせてくるんだ?なんで、友達の門出を素直に喜べないんだ?
本当は自分の話を聞いてくれる他者が欲しいんじゃないのか?

と。
そう思っちゃいます。

そういえばSNSの普及によって学内でのイジメが減っている、という話を聞いた。コミュニケーションコストが下がり、マイノリティ同士が容易に繋がることができるようになって、孤独を感じにくくなったから。
パパのことが好きな娘が増えたのもそういう理由だろうか。あれはそういうファッションなのかもしれないけど、結果としてお父さん嬉しそうだから別にいいのか。

ただし、「人脈」であったり、こじつけたような「他者との繋がり」は大嫌いで。

人の世を分かってなかった、20代前半はなんでも容認していてその結果、友達だと思ってたヤツに飲みに誘われ、行った居酒屋では彼の知り合い?が二人待ち受けていて「音楽やってる若いヤツはカネがない」という先入観の元、二時間強ネットワークビジネスの勧誘をされた。いわゆるねずみ講ですね。俺をなめんなよ。

別になんも困ってませんよ、と伝えてもこの人は年収○億円あって次のフェーズではそれがまた増えて、のマウント合戦で一切こっちの話は聞かず。最終的に「何言われても僕やりませんよ、そろそろ帰りましょ」きっぱりと断ると、今でも覚えてる、鳥貴族で一人3000円の割り勘。
さっきの億の話はなんだったんだよ!ここでカッコよく万札出しておいたら「うわー、この人かっけー!」って俺がのちのち寝返るかもしんないじゃん!ホントこの人なんもわかってねー頭わるー!と盛大にずっこけたのを今でもたまに笑い草にしてる。あの人元気かな。

こんなのは「社会」でもないし、価値創造から一番遠い愚鈍な連中だ。気をつけましょう。


中学時代の教科書に載っていてたいへん感銘を受けた他者は鏡である、という話。
掻い摘むと「生まれたばかりでまっさらな状態の赤子は、接していく他人を見て自己形成していく」と。

相手が悪い顔してると「あ、いま俺不快にさせてる?」と自認できるし、嬉しそうだと「たぶん今俺も笑ってるんだろうなー」と確認もできる、ニワトリ卵の素晴らしいシステム。

20代前半にリブートし初期状態になった僕は、ゆえに他人の影響を受けている。
なるべく喜んでほしいからふざける。リスク背負ってブラックジョークにまで手をつける。そしてたまにシチュエーション間違えて怒られる。

「社会」とはエリアではなくて、ハブ的役割を果たす物。
レジで受け取るレシートとか、エレベーターで押してあげる「開」ボタンとか、そういうものに社会がある。メルカリで買ったモノがキレイに梱包されてたらなんとなく嬉しいじゃないですか。

それぐらい「社会」は点在してる。僕らの意識・無意識レベルで。
そして僕ら自身も「社会」である、と。

だからあなた。
そんなに見栄張って強がらなくていいじゃない。
別に無理に仲良くしよう、とかは一切、思わんけど。

どうせ、一生自分自身とは離れることは出来ない。
逆にいえば、あなたが何をしたって自分自身はずっと傍にいてくれる。

だから、怒りを撒き散らして周囲に疎まれるじいさんばあさんになりたくなければ、自分自身の声に従うことだ。

「高島さんのドラムを生で観たい!」と。

おしまい



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