感情放棄、、否、吐露。そして生き様へ...

 死にたいわけではないけれど、生きるのに疲れたなと思った。

生きるのもしんどいし、死ぬのもめんどい。
だから消えたいとなるのだろうか。

がんばっても、それ以上を求められる。
みんな、簡単に言うけれど、責任は取りはしないじゃないか。

かと言って、私が責任を負うべきことなのかと問われると、、、まぁでも自分か?そうなのか?
現場のトップって責任取る人間じゃないのか?
丸くおさまるならいいのだろうけど、私は、私だけがしんどくないかい?
疑問が生じる、、、ほんとにあなたはそう思ってる?
言ってることとやっていること。
矛盾はしていないとなるのだろうけれど、温度が違っている気がした。

ここ最近、あまり寝れなかったりストレスだったり、疲労だったりで肌荒れしている。

原因は分かってはいるのだ。
それは、死である。

自分ではない、ある人の死が近い。

生きたいのだろう。
間違いなく、もっともっと。
死にたくないと思っているだろう。
まだ、待ってくれと。

でもさ、それに付き合わされて、こっちが死にたくなってりゃ世話ないってことにならないですか?

そうじゃないですか?

書く事が、陰なものになる。
だから、書いていても人様に出せるものではないと閉まったままにしていた。

けれども、人間、そのようなものじゃないかと

だったら、表に出しても良いのではないかと思って書いている。

その人の為にしてやりたい半分、したくない全部。と100パーセントを超えた感情を抱える。

噛み合うところと噛み合わないところ。
生きたいと心から願っている、あなたと噛み合わない。

想いが焦っているのだろうか、自分なら出来ると思っているのだろうか、そろそろ死ぬあなたと、多分、、まだまだ生きる私も同じ時間軸に今は生きている。

出来ないことは出来ない。
でも、出来たらやるから。

よくよく記憶を辿れば、そもそも噛み合ってなかった。
生きるの死ぬの関係なく。

正直、死んだところで何かを思うかも疑問。
ただただ他人。
感情、
会えば楽しい気持ちになる気がする。
全く、可哀想とかいう気持ちは湧かない。

今日、首から血が出てたけど、別にそうだろうな思っただけだった。

好きに生きた人間に対して、それは、生き様なのだから、とやかく思うのは頂けない。
ただ、自分が客観視することが出来ずにいて、、と考えると、可哀想ってのは普通の感覚なのだろう。

それにその仕事も、するのが当たり前だと思っていたから、人に言われて、そうではなかったのかもと、違う考え方があることに気づく。
まぁ確かに、働いた分は貰いなさいというのは普通だ。

何処かで読んだ話。
1人で野垂れ死のうとしている男に、可哀想と女が寄り添う。
だけど、男は誇り高く1人で生きてきたから、1人で死なせてほしいと、側を離れるように頼んだ。

生き様であるうちは、人がどうこう言うものではないのかなと。

迷惑はよろしくないですけどね。

おやすみなさい。


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