逃げる時は、正気だ。

 ふと、無理して頑張らなくても良いのではないかとの考えが浮かぶ。

何というか頑張り続けても、何処かで力尽きて頑張れなくなって、出来ずにいることにやっぱり虚しくなるし、至らないところが減るような感じも余りなく、見合う結果を得られているような感じもしなくて、えも言われぬしんどさだけが増すばかりである。

というか、頑張っていない自分を、足りてない自分、ダメな自分として認識してしまうことにも問題があると思う。

だけどそうは分かっていても、周りの要求のレベルが高いし、自分が自分に求めるものも当然高くなる。
が、現実はそうはならないことが常である。

そうして、その差をいつも味わって、心はいつもマイナスになる。

だから心は逃避するのだろう。

気づけば正気をいつから無くしていたのかと、遡ってみるとずっと無くしたままの様である。

正確には少しある。ただ、たまに我に返る程度の正気しか持ち合わせてはいない様である。

もう、それならいっそ自分を保ったまま、逃げた方が良いと思った。

頑張ることを知るのは大切だと思う。
苦労を知るのも大切。

でも、頑張ることが必然だったり当然だったり、自己評価をする上で前提条件であるのは、違うのではないだろうか。

余りにも、普通だ当たり前だとされたら、がんばっていない時、落ち着くべき時、そんな本来なら心が休まるべき時に心が休まらないではないか。

やるべきことはある、しなくちゃいけないことはある。それはもう山積みになっている。

身体は痛み、体調は良くはない。

考えるのは、「どう頑張ったら上手くいくのだろう?」という、言葉にすると泣きたくなるようなことである。

案外と自分のことは気づかないものであるし、無意識下で人目に無理と感じさせないようにもするだろう。
こういうことは、大なり小なり皆々様も同様であろうと思う。

だからこそ、誰かがそれをしてたら、私は止めるだろう。

だからこそ、正しい道は本当に正しいのだろうか、といった疑問も浮かんでくる。、、が、

といった、しようもないことを考えるのは時間が勿体無い。

そう、、時間が勿体無いのだ。

くだらないことを考えていてはくだらない。

だから、私は逃げることにした。
逃げることに意味を見出した。

少なくとも、正気を保っていられるほうが本当ではなかろうか?

少なくとも、正気を保っていたいのだ。

睡眠を取った方が有意義だ。

それでは、おやすみなさい。


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