3人の自分

嬉しい、悲しい、怒る、感動する。ただただ、心揺さぶられる感覚が自分の中には誰しも持っているもの。その声を聴くだけだと、気分は上がったり下がったりする。そして下手すると、下がったまま落ち込んだりする。

だから、ネガティブな感情とは距離をとった。ネガティブな感情に自分が影響を受けぬよう、距離を取り、観察し、本当は現実で何が起こっているのかだけを見る目をやしなってきた。そして、現実には何の意味もなく、意味を付けているのは全て自分であり、現実と思っているものは投影されたものだとも気付けた。

であれば、意味を見出せるのは自分だけ。どんなストーリーでも創れる。そう思って、ありたい、なりたい自分に目を向け、それを形にしていくことを日々行動に移してきた。

だけど、どうしてもうまく伝わらない。人の話に共感はする。相槌も打つ。喜びは共にする。でも、人生に、自分に不機嫌になる人を見ては、その自分が見ている世界が、自分が創りだしてるんだよってことを、あなた次第なんだよってことを私は相手に突き付けてきた。そしてその伝わらなさが、私を不機嫌にしていった。

ネガティブな感情に距離をとった結果、私は誰かの勇気を持った行動を称賛し、そして私も勇気づけられた。だが、その勇気を振り絞ったことを称賛しても、勇気を振り絞った後、いつもとは違うことをしたという心地悪さを味わっているのを見て、私はまたがっかりした。なぜ、そちらに目を向けるのよ、と。だからダメなんじゃんって。

他の誰かや環境を嘆く話には目もくれず、というか、関わろうとしていなかった。関わりたくなかった。相手のその気持ちに巻き込まれなくないし、そんな落ち込んだ誰かとは一緒にいたくない。それだからあかんのだよ。ダメなんだよ。と、そんな人の姿を認めずにいた。

いや、、、認めていない、じゃない、、、否定していた。

感情との距離をとり、ネガティブな感情に巻き込まれないすべを身に付ければいいのにと。私みたいに、と。

そして、気付いた。。。

"自分"や"自分の環境"を嘆く話には目もくれず、というか、関わろうとしていなかった。関わりたくなかった。"自分"のその気持ちに巻き込まれなくないし、そんな落ち込んだ"自分"とは一緒にいたくない。それだからあかんのだよ。ダメなんだよ。と、そんな"自分"の姿を認めずにいた。
いや、、、認めていない、じゃない、、、否定していた。

自分で思いつくまま書いた、太字にした文を、自分の話に置き換えてみる。

ここだ。。。

私は、嘆き、愚痴り、落ち込み、気分に上がり下がりする自分を否定していたのだ。自分の一部であるのに、関わろうとせず、目もくれず、一緒にいたくないとまで言い、だからダメなんだよと、距離をおいていたのではない、出来ればいないで欲しい存在だと思っていた。

弱くて、寂しくて、悲しくて、だから私のそばにいるのに、近づかないでね、と私は距離をとっていた。

自分の弱さ、寂しさ、悲しさと距離をとっている人は、他人の弱さ、寂しさ、悲しさには近づけない。

弱さ、寂しさ、悲しさは誰でも持っているものだろう??じゃ、あなたにだれが近づいてくるだろうか…

そういうからくり。

私のそばにいる、弱くて、寂しくて、悲しいもう一人の自分。それを教えてくれる自分。距離はおいても、手をつなごう。もう一人の自分に巻き込まれなくても、手は繋ごう。一緒に連れて行こう。一緒に生きよう。今の自分と。

なりたい未来の自分の姿は、凄くかっこいい姿だ。その自分に一緒に付いていこう。カッコいい自分に一緒に連れて行ってもらおう。未来の自分に。

私は、3人の自分と一緒にいまを生きる。手綱を持っているのはいまの自分。

「いま、ここ」で、いつでも共にいるから、3人で。

なかなか変われない…それって自分自身のせいじゃなくて、捉え方を変えたら今から変われるもの。そんな言葉を文章で伝えたい。最後はやっぱり自分と向き合い切るかにたどり着くから、その強さを持つ人になりたい。