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無意識でまとめてしまうあやうさ

集合をつくる。つまりそれって、何かしらの意味づけをして分類するってことなんだと思っています。

本棚を整理する時にジャンルや背の高さで並べてみたり、カトラリーを形状で整理したり、食器を用途でまとめてみたり、自分なりの、なんかしらの理由をつけてグルーピング。それが見た目に整理されて美しいとか、どこにあるかが明快で使いやすい…とか考える以前に、身体が反射的に動いてしまうんです。なので、うちの子が集めてきたモノも、ついつい一緒になって分類したりして。

赤い実と緑の実、みたいに色で分ける。丸いどんぐりと細長いどんぐりをカタチで分ける。枝を長い順番で並べてみたり、葉の色の変化をグラデーションで並べてみる。
そうやって特になんの意識もなく、なんとなくしてしまうこういうことの積み重ねが、なにかこう…、他者への配慮する感覚を麻痺させてやしないだろうかと不安になったんです。

グループを作るということは、グループに入れないものを作るっていうことなわけで、「仲間はずれ」を生み出してしまう行為を助長していやしないかと。

僕の苗字は「い」で始まり、そして男性なので、昔から五十音順で1番とか2番とか、せいぜい3番。だいたいそんな感じです。付け加えて苗字の読み方もちょっと一般的じゃないので、読めない先生とかもちらほらいます。だいたい期初には自己紹介とかありますけど、まず名前の正しい読み方を伝えることから始めないといけない、嫌な瞬間でした。自分のチカラではどうしようもないけど、なんとなく正当性があるようにみえる「五十音順」っていう枠組みに、ほんと辟易していました。ああ、「やまもと」とか「わたなべ」だったらどんなに良かったことか。

以前、千葉では誕生日順にしているところがあると聞いたことがあります。これを聞いた時は、なんか世界がひらけたような気がしました。そんな考え方があるのかって思ったんです。

けれど、よく考えたら、固定化されていたら結局は同じですよね。1日生まれる日が違うだけで学年が違ってしまうし、やっぱり色々と納得できないこともありそうです。だとすると、こういったグルーピングに対するアンチって考えるだけ無駄なんだろうか?

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ある時、うちの子が落ちている花びらを見て、かわいそうだから戻したいっていうんです。どうするのかと思って見てたら、赤いバラの上に、白いバラの花びらを並べ始めました。おいおい、それは白いほうにおいた方がいいんじゃないっていったら、こっちの方が綺麗でいいと思うよって。

なんだかいろんなことを言ってこねくり回しているけど、結局、同じもの・近しいものみたいな意識で世界を見ている自分の内面を指摘されたような気がして、ハッとしたのを覚えています。

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