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誕生日を祝ってもらうのが苦手だった子どもが、「ください!」と言えるようになるまで。


いじめられっ子でした。
同級生の自宅で開かれる誕生日会には、ほとんど呼ばれることがありませんでした。教室の隅っこでじっと辞書(!)を読んで、絵をかいて、学校での長い長い時間をやり過ごしてきました。あの頃の自分には「学校を休む」という選択肢はなくて。

「今月、誕生日なんだ。(だから、祝って)」

小学生時代、中学生時代、高校時代、フリーター時代。いつも、なぜか、そういうことをサラっと言える子がいて。そのたびに「自分との違い」に驚いた。天地がひっくり返っても、口が裂けてもそんな「図々しいこと」は言えないと、かたくなに思っていた。それが私。私はそういう人間だ。そう信じていた。

高校進学後も、学校に居場所のない感じは消えなくて、ぼんやり中退しようかなと思っていた高1の夏。このままでは私が危ないと思った(らしい)父が、フィリピンへの単身留学を勧めてくれた。

この場所から逃げることができるなら、フィリピンでもどこでもよかった。逃げるように飛び込んだフィリピンで、初めて「人に囲まれる」ような経験をした。

誰も、私を無視しない。そんな日々が自分に訪れるとは。
なかなか信じることができなかった。踏み込みすぎたらまた、みんなが自分から離れて行ってしまう。そう思ってフィリピン人の友だちから距離を取ろうとすると、後ろに下がった分だけ友だちは前に歩み出てくれた

フィリピンの友人からもらったあたたかさが糧となり、日本に帰ってからの日々をなんとかやり過ごすことができた。その後、紆余曲折を経て24歳で大学に入学した。学生時代に友人たちと立ち上げたNGOの国内事業をベースに、2010年。今の仕事に就く。

以来、海外にルーツを持つ子どもたちのための、専門教育支援事業「YSCグローバル・スクール」で、年間120名以上の子どもたちに支援を届けてきた。

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2015年。

決定的なできごとが起きた。
文科省の補助金をベースに、海外ルーツの子ども支援を始めて数年が経っていたタイミングで。当時いただいていた補助金は10分の10。私たちか受益者の持ち出しなく、潤沢な資金で支援現場を運営できた。

その補助金が、その年の2月に終了。これから、外国人保護者に月謝をもらって事業を運営しなくてはならない。目の前に、ここ以外に学ぶ場のない子どもたち。月謝負担が困難な家庭の子どもたちも3割くらい混ざっている。

この子達を見捨てるわけにはいかない。学校に支援はない。そもそも学校に通っていない。周辺の自治体は、海外ルーツの子どもたちのためにすぐに予算をつけるような、そういう状況にはなかった。私たちが手を引いたら、日本語もわからないまま放りだすことになってしまう。焦った私は、人生初のクラウドファンディングにチャレンジする。

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(2015年。初めてのクラファン。目標の2倍近い支援を得て、無事に月謝の払えない子どもたちに無償枠を提供できた)

クラウドファンディングは、思っていた以上に成功し、たくさんの見知らぬ方々にプロジェクトを支援していただいた。

声を上げれば届く。裏を返せば、上がらない声は、(今は)届かない。

たかが5年前の2015年。海外ルーツの子どもたちの存在は、当時まだ、ほとんどの人に知られていない。そして「日本語がわからない」子どもたちや外国人保護者が自ら、大声で叫ぶということは難しい。

誰かが、叫ばなければならない。「ここに、います」「学ぶ場が必要です」「そのための資金が必要です」と。

クラウドファンディングを機に、私は現場から一歩身を引くことを決意した。海外ルーツの子どもたちが学び続けるために。その子どもたちを支える日本語の先生やスタッフが、安心して支援を続けるために。「資金調達担当」に専念しようと思った。それ以外の選択肢が当時はなかったように思う。

長く、誕生日を祝ってほしいとは、口が裂けても言えなかった私は、以来、いろいろな感情を抑え込んで「ください」と言う。どんどん言う。あれもこれも足りません。必要です。ください、と。必要な時は、遠慮ないふりをして言う。下げてすむ頭なら、いくらでも下げようと決めている。

ください、と言い放った後になって
もっとああ言えばよかった
こう言ったらうまくいったかもしれないのに
と凹むこともまだまだあるけれど。言いたいけれど、遠慮が先だって言えなかったことも、たくさんあるけれど。

数年かけて、以前の私では絶対に言わなかったであろうことを、「サラっと」を装って言う自分が、自分になじんできたように感じる。「何者だよ」って自分で自分にツッコまずにはいられないけれど。それでも、なんとかやっているのは、私たちの活動を応援してくださってきた、たくさんの方々に、勇気をもらっているからだと、本当に思う。

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(たくさんの方々の応援が、彼らの日々を守ってくれている)

2018年。

「業界」にとって嵐が巻き起こって、状況はだいぶ変わった。海外ルーツの子どもたちの存在は、一般社会からよく見えるようになってきた。課題を発信する人も、たくさんいる。子どもたちのために何かしたい、と、私たちを訪ねてくれる人も増えた。

それでもまだ、変化の始まりの始まりにいるに過ぎない。

毎年毎年、100名以上の子どもたちが支援を求めてやってくる。他に学ぶ場がない。専門家と学ぶ機会が欲しいと、遠くからやってくる。経済的に苦しい家庭の割合は、依然として変わらない。「3割」だ。

新型コロナウィルスの影響で、これから来年にかけてはもう少し増えるかもしれない。月謝が払えない外国人家庭の子どもたちが増えても、安心して学ぶことができるように。2015年から運用している奨学金基金を準備しておく必要がある。

3月21日は、私の誕生日。
子どものころからずっと言い出せなかった、「ください」を、41歳の誕生日を目前に、迷わず、言いたいと思う。今このタイミングで、これ以上に、私にできることはないから。

私の誕生日を、祝ってください

そのお祝いに、寄付してください

1,500円から、寄付を受け付けています

その寄付で、外国人困窮世帯の子どもたちが、
無償で専門家と学べる機会を提供します

私の誕生日に、子どもたちの未来を、共に応援してください。

<ご寄付はこちらへ↓>
2020年3月31日までの受付です!

https://a-port.asahi.com/projects/kodomo-nihongo/

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お読みくださり、ありがとうございます!みなさまからいただいた応援は、私たちがサポートする困窮・ひとり親世帯の海外ルーツの子ども・若者が、無償で専門家による日本語教育・学習支援を受けるための奨学金として大切に使わせていただきます!