「分断の対義語」はなんですか?

先日、ジャーナリストの堀潤さんが監督の映画「わたしは分断を許さない」を、一足先に観させていただく機会に恵まれた。

(映画の内容は、同映画ウェブサイトや関連記事がたくさんあるのでそちらに譲るとして。まずはぜひ、こちらの予告編を)

大きな主語に隠れてしまう真実を、各地で生きる小さな主語を通して見つめる映像の数々に、分断は、思いのほか身近であることを知る。「分断」という言葉は、そのくらいどこか、遠いことのようなイメージを抱いていたんだろう。

彼の、彼女の、身近なあの人の、あなたの、私の中の「分断」に思いを馳せる。ああ、そう言えば、自分の子どもたちに起こる「あれ」も、いうなれば「分断」なのかも、と気づく。

先日、私の小学校1年生になる娘がこうこぼした。
「中国の人、みんな帰ってほしい」

テレビでは、コロナウイルスのニュースが流れている。
こんな小さな子どもの中にも、小さな分断の種は蒔かれている。
でも私はさして驚かない。
長男の時も、「このようなこと」は度々起きた。
無意識のうちに、ありふれた日常の中で、子どもたちは「このようなこと」を心に宿して帰ってくる。まさに「分断の種」とでも呼べるようなものを。

そういう社会だ。

そして我が子らは、だいたいいつも自分は「分断されない」ことを前提に、大きすぎる主語でその種の存在を明かす。

そのたびに、子どもたちには「小さな主語」にかみ砕いて語り掛ける。
我が子の通う学校には、中国をはじめ、海外にルーツを持つ子どもたちも少なくない。同じクラスの○○くんが聞いたらどう思うかな?たとえば私(お母さん)がウィルスにかかったら、どっかに行けばいいと思う?

こんな調子で。

例え話が正解なのかどうか自信も何もないのだけど、でもそのまま放置してはならないと、とにかく語りかけ続ける。(そのうち、うっとうしがられてしまう)

何度も何度も、その芽を摘んできた。それでも、気づけば子どもたちはまた新たな種を拾ってくる。その繰り返しだ。

持久戦。根気強くあれ、私。

さて。

映画を観てから、「分断」という言葉が頭を離れない。あれも、これも、もしかしたら「分断」と呼べるのかもしれないな、とか。世界のあちこちが「分断」であふれているんだな。とか。繰り返し、”ぶんだん”と唱えては、勝手に絶望的な気分に落ちたりして。

そしてふと思う。

「分断の対義語ってなんだったっけ?」

小さなころから、こうした種類の疑問が常に頭をよぎる体質で。さっそく調べて見たけれど、ウェブ辞書にそれらしき表現はない。かろうじて「分割」の対義語として「統合」「一括」「併合」という答えを得る。

でも、ちょっと違う感じだな。(うまく言えない)

その後もネット検索を続けたけれど、どうやら「分断」という言葉に直接的に相対する言葉はなさそうだ。

「分断」と「分割」は似て非なるもの。映画で示された「分断」に合いそうな対義語を求めて、SNSでつながっている人たちに問いかけてみる。

すると、思っていた以上の人が、コメントを寄せてくれた。

「包摂」
「統合」
「接合」
「融合」
「(地域)結合」
「(地域の)結束」
「絆」
「共存」
「混合」
「調和」
「和」
「アフィリエーション」

コメントを寄せてくださったみなさんのおかげで、個人的にこれかもしれない!と思った言葉はあったのだけど、それよりもなによりも、これだけの言葉が飛び出すということ自体に、「分断」という言葉の示唆するもの、の危うさを思う。でも同時に、並んだ言葉ひとつひとつに込められた「想い」を見る。この「分断の反対の言葉」のあたたかな多様性は、なんか、いい。

「分断はいやだ」

という気持ちは、けっこう多くの人と共有できるんじゃないかと思う。大きな主語では伝わりづらいかもしれないけれど、それが小さな主語になればなるほど、共有値はあがるんじゃないかな。

その身近にある「いやだ」の気持ちの裏側に、共存だったり、調和だったり、包摂だったりするものを思い描ける人が増えたなら。言葉にはならない個々人の想いを掘り起こすことができたなら。未来へ続く道は、少しばかり希望に満ちているように見える。今がいかに、絶望的であったとしても、だ。

分断を許さないのは「わたし」だ。
分断の対義語に想いを託す「わたし」が増えれば、その「わたし」の集合体である社会は、今よりも一歩、違う未来へ歩みを進めることができるかもしれない。

そんなに甘いものじゃないよ、現実は。と言われたとしても、だ。希望の「甘さ」も生きる上では大切なファクターだと信じてる。

映画の中に丁寧に描かれた「わたし」、分断の対義語に込めた想いを教えてくれた、たくさんの「わたし」から勇気をもらった「わたし」は、あらためて、「あなた」にこう問いかけたい。

あなたにとっての「分断の対義語」は、なんですか?
どんな想いを、託しますか?、と。

いつか、私の子どもたちにも同じ質問をしてみよう。あたたかな言葉に想いを託せる人に育ってくれたなら。

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