見出し画像

真実を知ろうとしない生き方はいつ頃形成されるのか。

書籍「ワクチンの真実」を読んで、「そもそも感染という病態は存在しない。」と知ることができ、すでに「感染の呪縛」から解放されています。

本当に感染がないのかどうかはわかりませんが「感染が存在しない」といわれても、それを「デマだ」と思わず、「なるほど。そういうこともありえるな。」と受け入れるくらいの気持ちは持てています。

しかし、世の中の多くの人は「感染」が存在しないというと、猛反発し、感染不在説(医学史では「ベシャンの宿主説」)をどうにも受け入れることができません。

この違いはなにか。

病気は他人からウツされるもの、自分の外から来るものであるという「被害者」スタンスではなく、「病気の原因は、すでに自分の中(宿主)にある。」という「人生は自己責任である」の認識を持てるかどうかの違いかもしれません。

   −−−

以前「嫌われる勇気」という本で話題になった、アドラー心理学では、

あなたの不幸は、あなた自身が選んだものである。

という部分が出てきます。

ダイヤモンド・オンラインに少し解説が出ているのでリンクを貼り付けておきます。

https://diamond.jp/articles/-/226001

スパコン富岳が「マスクは飛沫感染予防に効果がある。」と計算した結果は歓迎し、「五輪開催は可能です。」と計算した結果は「納得できない。」とこき下ろす。そのくせ「早く収束してほしい。」と口では言っている。

感染という概念を疑わず、マスクをし、マスクをさせて病気がうつらないように、うつさないようにしたいと強く願うのは、恐怖におびえる人生を自ら選び取っているからです。

これを「嫌われる勇気」から引用しますと、

ーーー

青年「つまり、私は『不幸であること』を選んだばかりではなく、このひねくれた性格までも自らの手で選んだのだと?」

哲人「もちろんです。」

ーーー

という話です。

ーーー

青年「意味が分からない。いったい、どこで選んだというのです?」

哲人「およそ10歳前後だというのが、アドラー心理学の見解です。」

ーーー

「自ら不幸を気取る生き方」を選択するのは、10歳前後とのこと。これは意識的ではなく、無意識に選択しているようです。

では、新しいライフスタイルを選びなおすことはできないのか。その理由についてもう少し引用してみます。

ーーー

一方、新しいライフスタイルを選んでしまったら、あたらしい自分に何が起こるかわからないし、目の前のことにどう対処すればいいかわかりません。未来が見通しづらくなるし、不安だらけの人生を送ることになる。もっと苦しく、もっと不幸な生が待っているかもしれない。つまり人は、いろいろな不満はあったとしても、『このままのわたし』でいるほうが楽であり、安心なのです。

ーーー

これまで教わってきた「感染」という概念を信じ、これまでも接種してきた予防接種に効き目があると信じていれば、ラクで安心なので、そちらを選び取るわけですね。

病気が感染ではなく宿主の状況次第である、といわれた瞬間、肥満、運動不足、睡眠不足、体力不足、スマホのやり過ぎ、酒、たばこ・・・などなど自分に起因すること全てを、他人のせいではなく自分で受け止めなければならなくなります。

「私が病気になるのは、他者がマスクをしていなかったからだ!」といえなくなるのです。

「ワクチンを打ちさえすれば感染から逃れられる!」と思っていたのに、ワクチンを打っても肥満や運動不足ではそもそもダメだと知るわけです。

自分にとって不都合な真実を受け入れること。それが最大の恐怖なのでしょう。

コロナを怖がりワクチンを怖がらない人は、ワクチンという便利なものをブスッと打てば、たったそれだけで自分はなんら努力しなくても自分を救ってくれるという考え方をすればいいので、ラクなのです。一方、自分が肥満や運動不足を克服するとか、仲間外れや他人からの攻撃、批判をされることがこの上なく恐怖なので、コロナが怖いのです。


逆にコロナを怖がらずにワクチンを怖がる人は、自分の努力次第で体調を管理していればコロナは克服できることを知っているし、批判や仲間外れも過去にすでに経験していて、それを乗り越えてきているから怖くないのです。一方ワクチンを打ってしまうともはや自分ではどうしようもないことが身体の中に起きてしまうので、怖いのです。


ではこの10歳頃に何が起きているのか。エリクソンの発達課題から考えてみます。

5歳から12歳の時期は「児童期」と定義されています。幼稚園や小学校などの集団で生活するようになり、同じ年齢の他人と自分を比べるようになります。周りの友人などを見ていて、自分が劣っていると感じる場面もあるはずです。

しかし、自分は劣っているからと諦めるのではなく、負けないように自分も頑張ろうと努力することで劣等感がなくなります。そして得られるものは自分にもできるんだという「有能感」です。

勤勉性により成功体験ができると自信がつきます。これは子どもを育てていく上で大切な感情です。

逆に、児童期に強い劣等感に負けてしまって、努力で劣等感を克服する経験をしなかった人は、有能感がなく勤勉性がありませんから、「もっといい方法はないのか。」「この状況を打開する糸口はないのか。」と勤勉に模索したり、そのために本を読み漁ったりという努力がありません。有能感がないということは、「自分がやっても無駄。」と思っているわけです。そのためテレビや新聞などから与えられたものを接種するだけになるようです。

10歳頃というと小学校4年生、5年生くらい。私自身は学校の算数がわからなくなって途方に暮れたのを思い出します。心配した母は、私を公文式に行かせてくれ、「1+1=」からやり直しました。やればできる「有能感」はここで得られたと思っています。

反対に、この時期に有能感が得られないのは、「どーしてそんなこともできないの?」と言われて育ってしまった人です。この言葉は子供の自尊心や有能感を破壊するキラーワードです。親が子供にこの言葉を放つのは、もうわかりますよね?親自身が有能感がなく育ち、自分より有能ではない自分の子供を卑下することで相対的に上位に立ち、自分を守ろうとするからです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?