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本気で友達がいない。だから友達と言う言葉を頻発する人は苦手。そういう人に友達と呼ばれたら違うと言ってしまう。生き辛いけど言いなりより1億倍マシ

数年ぶりに年上の知人夫婦(仲間)と食事してきた。
数人の仲間たちと一緒に高速道路で夫婦の住む街へ向かった。

私は友達がいない。
本当に一人もいない。
私には友達の定義がわかっていない。
性格が悪いせいも大いにある。
時々いる、自分が立ち寄る場所…あらゆる店、職場、そこで話をした人皆んなを友達と呼ぶ人間が、いる。
大型SCの専門店に勤務していた時、喫煙所で呆けていたら、その時々いるタイプの同僚もタバコを吸いにやってきた。

他の専門店に勤めている人間の名前をたくさん聞かされ、誰と誰が揉めているとか、今度だれそれと昼めしにいく予定だとか、自分の立ち寄る店の人らはほとんど友達になったと言っていた。

不思議だが、同じ職場なのに、彼女とは友達ではない。
他の同僚と、彼女と友達と言える関係の人は1人もいなかった。…私と彼女で"友達の定義"に著しく相違があったからだろう。

友達が多いことは悪いと思わない。
喜びも悲しみも友と共有できれば、きっと人生は豊かになると私でも想像がつく。

だが自分で友達が多いと口に出してしまう人は、良いと思えない。

きっと私にとって友達と言う言葉は非常に重いのだろう。

そしてそれ以上に重いのが仲間と言う言葉だった。

私には友達が1人もいないが、本当に幸せなことに仲間がいる。
仲間とは私にとって、相手との関係性を明言しなくても良く、しかもお互いの考えていることを共有したりでき、ときには1つの目標に向かって一緒に行動できる関係性のことである。

私は自分のプライベートや愚痴をあまり他人に話すことができない。
特に一緒に何か作業したことがない人間には話す気分になれない。

なぜなら、自分もそういうことをされるのが苦手だからである。

今、仲間と呼ばせてもらっている人々は、何度も何度も一緒に修羅場を潜ってきた。
お互いの家庭環境のこと、仕事の事、そんなことを根掘り葉掘り話すこともない。辛い時に少し自己開示したくなったら「最近ちょっとあかんなー」と、お互いに言い合って詮索しない。

悩みを打ち明けたそうにしていたら、とても慎重になる。
話せることだけ話してくれればいい。

だが友達と言う言葉を多用する人は、少なくとも今まであった中では、この気遣いと思いやりがいつも感じられなかった。

私の性格がひん曲がっているせいもあると言う事は重ねて書いておく。

ママ友、と言う言葉があるが、私はある事情でママになることができないのでこの言葉の持つ意味も一生実感できない予定である。

だから偏見を承知で書くが、お互いに子供がいる母親であるというだけで、なぜ友の前にママをつけなければいけないのか理解できない。
私にとって友達と言う言葉は非常に複雑な意味を持っていて、未だに定義ができていないので、もし私が子供がいた上で、他の母親が自分の友達だと言うのであれば…

私には友達がいる(その人は母親である)

という状態になると思う。
だから私はママ友という言葉をきっと使いこなせない母親になるんだろう。

最初は〇〇くんのお母さん。
関係が深まれば〇〇くんのお母さん以上に、その人個人の方が大切になるはずだ。
友人とは、友達とは、一対一だから。

つらつらと書いたがきっと、ママ友は、お母さん知り合いの総称とか、いちいち書くのがめんどくさいからまとめている位のものだと理解している。
特別違う場合は、仲良しのママ友と書くのだろう。
ママ友と言う言葉には、お互いが出会ったきっかけの説明も含まれている。友達とだけ言ってしまうと、お互いの関係性の中に子供の存在があった事を重ねて説明しなければならないので、記号とし便利な言葉なのである。

けれども私は理解できないから多分一生使わない。

もちろんママ友と言う言葉を使う人を否定する気持ちは全くない。私には理解できない。ただそれだけだ。

仲間が集まって久しぶりにたくさん話をした。

そういえば先日からアニメを見ているのだが
映像研には手を出すな!
も視聴した。なんと原作も今発行されているものは全て入手できた。

その中で、映像研究会の1人の女の子の親が、他の部員に「娘の友達?」とたずねる。
その答えは「友達ではなく仲間です」であった。

友達がいなくても全く平気だ。
具体的な活動を伴わない関係性を友達と言うなら、今はまだそれがなくても大丈夫だ。
だけど仲間は大切だ。
仲間に何かあれば自分ができる事はしたいと思ってしまう。

友達がいなくても全然平気で、仲間と思える人がいる自分は本当に恵まれているのだろう。

先日ご飯を食べたときに、会えない間に仲間に起こった様々なことを知った。
正直聞くのが辛いこともあったし、逆にこのタイミングで聞けて良かったと言う気持ちもあった。

そういえば、私は他人に対して「察して」を許せないところがある。
もちろん、仕事や作業において臨機応変に場の空気を察してくれ、とか言う話ではない。

全く事情を知りもしない(興味もない)プライベートな事情察しろと言う場合においてのみである。こういうのは相談とは言わない。ゴミ箱にされているのだ。自己開示欲求不満の掃き溜めにされているだけだ。

相手は私のアドバイスなんか最初から求めていない。
何を言っても、それに関する感想が返ってこないからだ。
本当に解決を求めているのであれば、少し位はこちらの言ったことに対して感想なり何なり戻ってきてもいいはずだと思うが、出てくる言葉は「だってね」「きいてー」から始まる自分の話だけ。そして姑息なことに自分の不利になる事は巧妙にこちらに明かさない。

私は絶対に察してなどやるつもりはない。
もし相談をするならば、解決策を求めているのならば、自分の悪かったところも含めて説明すべきと思う。
それをしないなら最初から誰にもしゃべるな。
1人で抱えろ。

こんなだから友達がいない。
私を無理矢理友達カテゴリーに加えようとしようとしてくる人がいたら「ときどきお世話になっている人」「友達とか仲間とかでは無いけど」と思っているし相手にもはっきり言う。
そして自分は友達がいないことも付け加えている。自分には友達という言葉がいまだにはっきりと定義できていないことも必要であれば言う。めっちゃ面倒臭い奴である。
もしかしたら冷たい人間とか、ひどいやつとかどこかで言われているかもしれないけれど、自分が理解できないから仕方がないのである。

全く理解できていないカテゴリーに無理矢理加えられるよりは1億倍マシである。

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