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さまざまな世界の終わり方

だらだらと話す気はないんだ。
その男は実は強大な力を持っていたんだが、それを家族を守ることだけに使ってひっそりと一生を終えたので、誰も気づかなかった。それだけの話だ。

力?
男はそんなことしなかったけれど、たとえばあそこの山を半分くらいに潰したいと思ったとするだろ。簡単にそうできるくらいのとんでもない能力をもっていた。たとえば、な。

男の人生は冴えない、平凡なものだった。下級役人になり、そこそこ認められる働きぶりだったが歳を重ねて自然と押し上げられる最低限の役職以上に出世することは全くなかった。公正な役人だったし、親切でもあった。もしかすると、だからこそ出世しなかったのかもしれないが、公正さを振りかざして上司とぶつかるとか、そんなことは一度もなかった。
無理を通さなかったのだから、当然「本当はこうであるべき」という公正さをそのまま通せないこともたびたびあった。ため息をつきながら、それでもそこそこ良い状態にもっていくというのが、男の役人人生だった。

妻を得て、娘を得て、二人を大切にした。妻も娘も、男が出世をしたり大金を稼いだりしない、優しいけれどかなり平凡な夫であり父親であることは分かっていた。たまにそれがつまらなく思えることがあったのは本当だ。母と娘はときどき男の平々凡々ぶりを、一緒に台所に立ちながら、話の種にして笑い合ったりした。
とはいえ妻にも娘にも、優しくて、公正なのは間違いなく、覚えている限りでは男がなにかそれを踏み外すようなことをしたり言ったりしたことは、一度もなかった。さすがに母子もこれはそうそう守り通すのが簡単なことではないと分かっていたので、その点では、静かに尊敬はしていた。

妻のからだに巣食った病を密かに消したり、学校からの帰り道で娘が鉢合わせるはずだった災害をそっとそらしたりしていることは、気付かれなかった。そもそもはじめから無かったかのように過ぎていくので誰も気づきようがなかった。
自分自身も含めて家族まるごと命を落とすかもしれない疫病の脅威が近づいた時は、さすがにいささか不自然なことになった。疫病がなぜか彼らの住む町を迂回するかのように拡大しつつ通り過ぎていったからだが、人々にしてみれば不自然というより幸運と受け止めて納得したい気持ちの方がはるかにまさったので、誰も変だとは言い出さなかった。

そんな風に静かに平凡に人生が過ぎて、とうとう男は死んだ。

話したいことは、あとひとつだけだ。

葬儀の日は、朝からずっと小雨が降っていた。あの地方では、遺体を焼いたらその足ですぐ家族や親戚一同連れ立って墓地に納めに行く。昔は、そうだったんだ。
用意された男の墓はちょっとした丘を越えあたりにあった。みんなはゆっくりと小雨の中を丘をのぼっていった。丘をのぼりながら男の妻も娘も、なんどもおおきく息をついていた。男の妻はじっさいもう歳だったし、だらだらと長い丘ののぼり道はちょっと辛かったしな。娘はまだそれほどの歳じゃなかったが。
みんなが丘をのぼりきった頃、雨がやんだ。雲が急に切れて、日が差した。
そして、大きな虹が、丘の向こうの空に鮮やかにかかった。
男の妻も娘も、足をとめて虹を見上げた。

男の妻と娘は「お父さんのお骨を収めに丘を登って行ったらそれは見事な虹がかかった」という話を、その後何度も、何年も、微笑みながら、した。
男が死ぬ前にしかけておいたことだとは思ってもみなかったが。

これが、すごい力をもっていたが、実に静かに、平凡に暮らした男の話だ。
話したかったことは、これだけだよ。

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