hatra・chloma・BALMUNG ――①

"今日、美術批評家の仕事はほとんど展覧会の報告、解説、海外画壇の紹介等に尽きている。対象である作品によりかかる責任を全てそれに転嫁している。権威、尊厳などあるはずがない。真の批評はそれ自体が作品である場合のみ成り立つのである"

ハトラの特徴は「非身体的な装飾」にある。大きなフードは「テイスト(趣味)」に過ぎない。有用性に舵を切った「ラグジュアリー・ファッション」が身体へ攻撃的な装飾を嫌うように、フードも頭部にのみ緊張を持つ非身体的な装飾に抑えられ、切り替えの中心的な配置も身体に対して無根拠に整然としており、概して、ハトラのデザインはラグジュアリーに近い位置にある。

この画像の定番のパーカーにおいての切り替えは、肩を分けるもののちょうど半分ほどの位置で中心のジッパーへと伸びつつまた半分ほどの位置でポケットのものに合流する。ここでは切り替えによって二度の等分が行われ、服の重心は中心へと偏っている。

重要なのはこの重心の位置である。例えばレディースとメンズの服では重心が異なるが、この中心性はそのどちらにも属さない。服の内部においてのみ関係性を結んでいる。レディースともメンズとも区別のつかないような、かといっていわゆる「ユニセックス」と称されるほとんどの服が単なる未分化の状態に堕しているだけのことを指すのでもない、内部への閉鎖性――これこそがモチーフの「部屋」を最も適える表現である。度々言及されることの多い「フード」は単なる記号(ブランドアイコン)に過ぎないとしても、それでも非身体的な装飾であることでシンタクスを崩してはいない。

かといって構図的な成功は容易いものではない。メッシュ、「苔」、またプリントのアイテムはこうした切り替えの効果を減じているし、コートや作務衣はその丈ゆえに収斂するような中心性が失われている。ルックにボトムスがないのも(そもそも作っていないのも)、この困難のためのように思われる。そしてまた更なる困難は、狭いパーカーの域内で可能な"デザイン"は極々限られるということだ。

ひとつの突破口が見られたのはエヴァンゲリオンとのコラボの一点であった。単色以外での成功例として最も優れている。肩を分ける切り替えとポケットの上下にあるカラーブロックは等分する配置であり、これまで以上に強い効果を持っている。窮屈に詰め込まれた正面の中でも否応なく浮き上がる文字と副資材への審美眼も確かであり、"一個物"の作品として閉じられている。

往々にしてファッション・ブランドは大言壮語なモチーフを掲げ、そしてその印象論ばかりが消費されることへの疑義として、ハトラの「部屋」は実に適切ではないだろうか。重要なのはデザインを作ることであり、また見ることである。


《画像引用元》

http://www.fashionsnap.com/collection/hatra/2014-15aw/

https://instagram.com/hatrangam/

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