hatra・chloma・BALMUNG ――②


特に興味深い点は使われる色彩・素材の変化である。ちょうどchlomaにブランド名を変更した2011AWにおいては継続してナイロンタフタが多用され、黒も多く使われていたがその後は柔らかなウール素材やネオンカラーが目立つようになる。ナイロンや黒色は身体に対して敵対的であり、素材自体が独立する。同様にネオンカラーは身体に敵対的であるが、素材が柔らかであるために身体のフォルムに対して浸食する力を強くしている。この極端な例は、イリス・ヴァン・ヘルペンの3Dドレスは重厚な素材によって身体と分かたれそのものとして独立するが、コムデギャルソンのこぶドレスは身体のフォルムと結びついてあたかも身体が変形しているかのように見せることと相似する。

単にアンチ身体の造形であっても素材・色彩によって身体という支持体との緊張関係は違うのである。この差が前期と後期にそのまま当てはまるだろう。また、もちろん市場に乗せるという意味での簡略化という側面もあるのだろうが、それ以上にディティールの大型化はデザイン上の意味を持っている。細かなプリーツや切り替えは身体に沿うために変形を起こさないが、大きなポケットや襟はその奥に隠された身体ごと一つの「モジュール」のように概括する。この大型化の傾向もまた2011AWよりは2013AW、2014AWと次第に強まっている。上記のルックのコートは定番のネンドロイドコートの変形でもあるのだろう、重心の位置はポケットによって代替されている。ネンドロイドコートの尖らせた裾のディティールはJUNYA SUZUKIの頃にも多用されているように単なる趣味、「手癖」によるものだが、こうした大型化とモジュール化は後期にのみ見られるものである。2013AWのオレンジのコートのカラーブロックもまた同様に後期のみ見られるものであり、極めて意志的なデザインだろう。

服の内部で閉鎖的に構成するデザインはhatraとも近いが、パターンには大きく距離がある。重心にしても、hatraは完全に服の内部でのみ作り込み身体に対して無根拠であるが、chlomaはレディースの身体に根拠を持つ。重心はそうであるし、また肩幅やそして色彩もレディースに基づいている。

服とは<モノ>である。端的に言えば、単に布を切って合わせたものだ。そのただの<モノ>が「着る」という用途を持つ時に服は<ファッション>となる。hatraとの違いはここにある。hatraにおいては「着る」シーンの想像力は抑えられ、ありふれたスウェットという素材、そしてゆとりのある柔らかな線で引かれたパターンによって単なる<モノ>としての印象を強くするが(特にモノらしいのは伊勢丹でのエヴァンゲリオンコラボの一点である)、chlomaは本来ならその質感・色彩から<モノ>として強く主張するはずの服が、パターンが硬質に、あまりにも"よく作られている"ためにむしろhatraよりも<ファッション>を感じさせる。これはデザイナーの持つ設計思想の差だろう。

「フィギア的」という形容がchlomaには付きまとっている。これは単に<モノ>を着るだけで済ませる「コスプレ衣装」と違い<ファッション>へと昇華させる工程のためである。chlomaにとっての<ファッション>とは、人間をひとつの「フィギア」、ひとつの<モノ>にするために、非現実的な素材とディティールを身体に浸食させる格闘なのだ。

これはおぞましい、だが美しくもある。


<画像引用元>

http://www.fashionsnap.com/collection/chloma/2014-15aw/

http://coromo.jp/report/chloma-2013aw-report

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