いきるちゃん

歌にはならないわたしのこと

いきるちゃん

歌にはならないわたしのこと

最近の記事

社会に不要な個人の感情を手放したい

社会において、自分の正義や自分の感情というのは大事にされない。どんなに己の正義に反していても、どんなに悲しみや苦しみを纏っていても、それは個人としてのものでしかなく、こんなの絶対に間違っていると思いながらも、自分の中で留めては受け止めて受け入れて諦めてやっていくしかない。(ことがある) 理不尽なことが当たり前のようにあって、それを皆が仕方がないと当たり前のように許し、社会ってそういうものだからと、空気読めよと言われているみたいで、強制的に納得せざるを得ない。そこで生じた個人の

    • あの死にたみは呪いだった

      大学を卒業した。とっても長く苦しい7年間だった。 思えば、呪いにかかっていたようだった。 こんな自分が生きてていいわけがない早く消えてしまいたいという呪い 何をやってもうまくかないのは自分のせい、人とうまく関われないのは自分のせい、バイトで失敗するのも自分のせい、自分を大事にできないのも自分のせい、夜眠れないのも、毎日わけもなく涙が止まらないのも、家から出られないのも、しにたいと思ってしまうのも、全部自分のせい すべて私が悪いといった自責思考を立派に育ててしまった 育てたもの

      • 下書き集

        2023年 下書きに保存されていたものを1年の振り返りとして公開しておこうと思う。 2月16日 最悪なことにまた1つ歳をとってしまった なんてこった! だけど誕生日というのは その年まで生きたことをえらいぞ!めでたいぞ!とお祝いする日なのでとても大事 こんなに生きていてえらいね〜〜〜 まだまだ生きるぞ〜! おぎゃー! どうしようもないことを考えては、どうしようもなさに落ち込んだりする。ずっとしにたいとか言っていろんなことから逃げてきたけど、本気のしにたいなんて数回あった

        • 言葉を大事にしすぎると何も言えなくなる

          なんとなくパソコンから書いているよ。 リアルタイムな感情をうまく言語化できないので、下書きがたまっていく一方である。 言葉は無力だ。「大丈夫」も「がんばれ」も「生きてるだけでえらい」も、そんな言葉では全く救われないどころか、「お前に何がわかんねん」と無責任さを残すだけである。何を言っても間違いになるから、何も言わないが吉。だけど何も言わないとそれはそれで、無関心だと思われちゃうのかな。何を言えばいいんですかね。言葉1つはすごく重いのに、文字にしてしまうと宙を舞ってしまう感覚

        社会に不要な個人の感情を手放したい

          君の死にたいをわかりたい

          気づけば新年である。みんな去年はどんな年だった? 私はなぜかお正月とかめでたいイベントが苦手で、毎年のようにうんち!!!と言っているのですが、今年も同様に「なにがめでたいねん…」とほざいてたよ。。いつまでひねくれ者やるんだろうね。。 そして毎年のように今年の抱負は?と問われると「生きる」と言っている。おもんなっても思うけど、とりあえず1年生きてたらおっけー!のマインドは超大事。まあリアルに今年は納得のいく就活をすることが一番の目標かな。真面目やわ~きっしょ~!いきるちゃんとい

          君の死にたいをわかりたい

          苦しいも虚しいも死にたいも全部抱きしめたい

          なんだかジワジワと心が暗い方へ蝕まれているような感覚でいる 気にしないようにやり過ごした事や言葉を思い出しては、今更ながらにちょっと凹んだりしている。自己否定が強くなりすぎないように、思考にブレーキをかけることはできるようになってきたけど、気にしないフリをしているだけでちゃんと私傷ついてた。悲しいや苦しいを見ないようにしていただけで、在ることに変わりはないのだから、そりゃあこうなるよなといった感じ。癒えませんね、私の痛みはどこにいくんだろう。傷ついたものの癒し方がわからないか

          苦しいも虚しいも死にたいも全部抱きしめたい

          自分が悪くない世界を生きてね

          しばらく書いていないと何を書いていいかわからなくなるね 言いづらいこと もったいぶってたら余計に言いづらくなる感じ あのとき死ねばよかったと思う日がたっくさんあって、生きているとくるしいことばっか目立つ 自分と向き合うことがこわくてたまらない 死ななかったけど、思い出しては泣いてしまうのでなるべく思い出さないように考えないように過ごしている。生きている感じがしないのは、自分の心の問題なのだろうか。私ってなんなんだろう、どうしてこんな人間になってしまったのだろう、どうして生き

          自分が悪くない世界を生きてね

          生きててよかったと思える自分になりたい

          忘れたくないから書き残そうとおもう これまで私が呟いてきた「しにたい」はそのままの意味ではなく「逃げたい」に値するものだった。本当にしにたいはわけではなかったし、そう呟くことで少しだけ現実から目を背けることができた。しにたいが感情の飛躍でしかないことに気づいたのがだいたい1年前、それからしにたいと言って逃げることができなくなった。内省し続けた結果がこれかよと逃げ場のなくなったことに深い深い絶望をした。それでも苦しくなったりたまに楽しくなったりとなんとか生きてきた。 その日

          生きててよかったと思える自分になりたい

          🐯

          2021年振り替えっていこうと思う 今年もよく生きていたのでいろんなことがあった まず家が水没して引っ越しをした、えありさんとツーマンをして、バンドでレコ発もした、復学をして音楽を休むという選択をした 幸せかもしれないと感じることも圧倒的に増えただけど記憶の限りいちばん泣いた年だったと思う そして自分をより深く知った1年だった これまで向き合ってきたのは私が見る私で、ずっとひとりで自己を見つめるばかりだった。だけど今年は他者と関わることも多く、他者を介した私と向き合えたよう

          ヽ(^0^)ノ

          苦しいときに吐く言葉、正常なときに思うこと、どちらが本性なのだろう 「死にたい」が感情の飛躍でしかないことに気づいてしまい完全に逃げ場がない。自分のことはこれでもかと分かっているようで、本当は何も分かっていないのだという理解が乏しい。最悪な自分の状態でここに言葉を綴るのはどうなのだろうと思って、ただどうしようもないから泣く。生きていたって苦しいじゃないか。「それでも」の先に何があるというのだろう、私はいつまで絶望し続けるのだろう。変わるべきなのが自分だということはわかってい

          今の自分は過去の自分の言動の上で成り立っている。私のこれまでの人生が間違っていたとは認めたくないし、認められないから、過去の過ちも後悔していない。当時の私必死に生きてたなと慰めたいほどだし、自分の行いに対して「なんであんなことしちゃったんだろう」とは考えられない。 最近よく自分の22年間を振り返る。 私がピアノを習い始めた理由を自分では思い出せなかったんだけど、親に聞いてみると、「うちは共働きで保育園のお迎えも1番遅かったからみんなが帰ったあとに保育園の先生がピアノを教えて

          「わたしはひとりでなんとかしてしてきた」のではなく、『ただひとりで耐えるしかなかった』が本当。なんとかしてきたのなら学校に行かず引きこもることも無かっただろう。何を勘違いしているのだろうね、きもちわる! 自分という人間のすべてが嫌になる瞬間が多すぎる。どうしようもないよ本当になんなんだろうわたし。 惰性で感じるしにたいにも辟易して、しねないのだから仕方がねえと生きてしまっている。こんなことを夜な夜なTwitterに吐き出しては、稀に共感を獲て、わたしだけじゃないのだと安堵

          自分の弱さをこのように露呈するのは愚かなことなのだろうか たださみしいとか、ただくるしいとか、どうしようもなく寄る辺ない感傷にも飽き飽きして、どうせ私は残念な人間だしなと諦めるとともに、そんなことにもまた飽き飽きしている。 自分の中にいるいくつかの私たちが乖離していく感じ。言葉にしようとすると更に分離していく感じ。「私は強い」とか「ひとりで生きれる」とか言った発言は思い上がりにすぎないのだろうか。人から心配されると、舐めてんの?と思ってしまう。ひとりで生きてきたなんては決し

          はじめて「変子」と言われたのは大学一年のとき。変子ってなんやねんと思って聞いたら、変な子の略だった。一文字くらい略さず言えや どうやらおれは変な人間であるらしいと気づいたのもそのときだ。友達がいて、それなりに勉強ができて、部活にも熱心に取り組み、人並みに片想いをしたりと、そこらの人間と何ら変わりない人生を送ってきたはずなのに、おれの人間性はやはり「変」らしい。なんてこった!💩 確かに、おれって普通じゃないのかなと思うことはまああったけれど、それって誰しもが通る思春期特有のア

          「君には歌があるからいいじゃないか」とごく稀に言われる。だけど、歌なんかうたえても、私はみんなが簡単にできることができなかったりするので、みんないいなあって思うよ。最近はあんまりないけど、はじめてのコミュニティに入る際はかなり吃ってしまったり、学校に行くということもできなかったし、バイトでもいらっしゃいませすら言えなかったし、人と喋るというストレスなくできるようなことが、私にはかなりストレスだったので。だから、歌なんかうたえても とどうしても思ってしまう。まあそれでも私はうた

          誰かの話を聞いているとき、私はよく「わかる」と言う。私の中にいる人格の誰かは、その想いに共感しているからだ。だけど、実際 わかるわかる と言われたら、いやお前に何がわかんねん と思ってしまう私もどこかにいる。人の話を聞くのは難しい。だけど私はみんなが楽になるのなら、吐き口になりたい。無理しないでね、と言うと、君はもっと自分のことをいちばんに考えなと言われた。最近わたし元気だから、こうやって人の心配をする余裕があるんだよと返した。私が無理していることがあることを知っている人だか