見出し画像

【ふくろう通信07】米原万里と「亡き人へのレクイエム」

 プラハゆかりの日本人でもっとも有名なのは作家の米原万里(1950~2006年)だろう。小学3年生だった1959年、父親の仕事の都合で東京からプラハに移り、ロシア語で授業をするインターナショナルスクール「ソビエト学校」に入学。4年間を過ごした。

ロシア語のバイリンガルに

 両親は当初、各国の共産党エリートの子弟が集うソビエト学校ではなく、チェコ人が通う地元校に入れるつもりだった。しかし、チェコ語を学んでも日本に帰国してしまうと書物が手に入りにくく、将来的に役立ちにくい。これに対して、冷戦時代、アメリカと並ぶ超大国だったソ連のロシア語は国連公用語でもあり、将来性が高かった。この両親の判断のおかげで米原はロシア語のバイリンガルとなり、やがてロシア語同時通訳の第一人者として知られるようになる。

 黒子として他人の発言をそのまま伝える通訳は欲求不満がたまる。強い自我を持つ米原が自分の考えを自由に表現できる作家に転身したのは、義弟(妹の夫)でもある作家・井上ひさし(1934~2010年)の応援があったにしても、自然な流れのように映る。通訳稼業の打ち明け話やロシア人・ロシア文化にまつわるエッセイで人気を集めた米原だが、作家として広く認知されたのは、大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』(2001年、角川書店)の刊行からだろう。

『嘘つきアーニャ―』の表紙絵は後藤栖子「プラハにて」

ソビエト学校同級生とナショナリズム

 この作品は、ソビエト学校の同級生だったリッツァ(ギリシャ人)、アーニャ(ルーマニア人)、ヤスミンカ(ユーゴスラビア人)の消息を追い、再会を果たすまでを描いた。もともとは「世界わが心の旅 プラハ4つの国の同級生」というテレビ企画だったが、その描かれ方に不満があり、自ら筆をとったらしい。カフカ研究で知られ、プラハにも詳しいドイツ文学者の池内紀は自著『亡き人へのレクイエム』(2016年)で、米原との対談を次のように振り返っている。

 <「国境なんて二一世紀には無くなるのよ」/「民族とか言葉なんて下らない」/テレビ番組はアーニャの言葉を「追認」するかたちで終わっていたようだ。放映は一九九六年二月。さぞかし意味ありげなナレーションと音楽つきで「国や民族や言葉から自由になる二十一世紀」と、高らかにうたい上げるエンディングになっていたのだろう>

米原万里をしのぶ関連書籍

 外国にいるとたいていの人間はナショナリストになる。米原も例外ではない。エリート外交官の娘で豪邸に住んでいたアーニャも同様で、いつもルーマニアを恋しがっていた。しかし、米原が再会したアーニャはロンドンでアッパーミドルの生活を享受し、貧困にあえぐ母国のことは気にもとめていなかった。米原は「常に勝ち組にい続けるための過剰反応という名の習性」をかぎ取り、「でも、ルーマニアは、あなたが育った国でしょう」と問い詰める。「そういう狭い民族主義が、世界を不幸にするもとなのよ」と反論するアーニャの表情を、米原は見逃さない。

 <丸い栗色の瞳をさらに大きく見開いて真っ直ぐ私の目を見つめるアーニャは、誠実そのものという風情だった>

 プラハ時代のアーニャが、嘘をつくときにみせた表情と同じだった。

鎌倉のライ麦パン

 ソビエト学校の食堂ではロシア料理を食べていた。ロシア料理に欠かせないのは酵母の発酵による酸味が効いたライ麦の黒パン。米原も大好きで、仕事でロシアに行くたび、大量の黒パンを買って帰った。文筆業が中心になり、井上ひさし夫妻が住む鎌倉に引っ越してからは、鶴岡八幡宮近くのドイツパン店でライ麦パンを買い求めた。

 <「この辺では、これが一番プラハのに近いわね」と万里は言った。/結局わたしたちは、いくつになっても、どこに住んでも、あのときのプラハの味を探し続けていくのかと思うと、おかしくなってふたりで笑った>(井上ユリ『姉・米原万里』文春文庫)

 若いころ覚えた味はいつまでも忘れられない。ドイツ風の黒パンはロシアのものより酸味が軽いが、米原にとっては「国」というものを否応なく突きつけられたプラハの日々に思いをはせるよすがになっていたのだと思う。

ドイツパン店「ベルグフェルド」のオープンサンド

 では、また。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?