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FROM COURT SIDE

”眩しい陽射しを背に〜”ではない。

”ゔぁっかもーん”と主人公の頭を殴る渋い声はそこにはない。

14番の色気溢れる声はない。

白髪の仏の、温もり溢れる”ほーっほっほっ”がない。


何がある?


知っているのに、初めて観る様なマンガのアニメという印象。

生き生きとした描写。

後方から伝わるスピーカーの臨場感。

独特の緩急。

無音という空白が醸し出す、何か。


全然BAADではないゾ。


アニメの映画を観るのは、20年程前の猫型ロボット以来?

公開前の発表で、アニメをよく知るファンからのバッシングが凄かったらしい。

気持ちは分かる。

鑑賞後、今作の脚本と監督を務める原作者のインタビューを読んでみた。

映画鑑賞前に読まなくて良かった。

何故なら、先入観を持って臨んでしまうから。

作る側には作る側の意図がある。

そこを汲み取ってからの批評でも遅くなさそうだ。

長らく人々に愛されているものを、刷新して創りなおすことには大きなリスクを伴う。

作品の内容は小出しにして、ギリギリまで情報は最小限に留めておくことはファンの期待を昂らせる反面、がっかりであれば逆効果。

公式ページにあるインタビューは17話まで続いていて、裏側を担った方々のインタビューが続く。

鑑賞後、どこか琴線に引っ掛かる作品であったならば、その裏側を探ると点が線に繋がる瞬間があるかもしれない。

批判サイドの言い分としては、完璧にとは言わずとも、どこか過去の”焼き直し”を期待していたのかもしれない。

お馴染みの登場人物達を描き直し、しかも原作者本人が手を入れることは、異例ではないのだろうか。映画に詳しくない為、ご教示賜りたい。

鑑賞後、自身の指標として加わったのは、その作品にはどんな”重み”が含まれているのか。

直接言葉では伝えないけれど、非言語で伝えてくれるコミュニケーションはしっかりと捉えたい。

本作における簡単な例を挙げるならば、”ああ、生まれがここだから、この苗字だったのか”。

何も、想像する力を要するのは鑑賞側だけではない。

制作側の各スタッフも、監督の抽象的な指示に対して、”ああでもない、こうでもない”と想像力を働かせている。

本作の始動は、原作者に対して提案をする所から始まっているとのこと。しかも二度に渡り、プロジェクトチーム側の提案に原作者はNOを出していたそうだ。三度目の正直でOKが出た。つまり当初から乗り気ではなかった。

希釈情報媒体のニュースを読んで、”大炎上しているね、確かに以前と同じ声、あの2曲は入れて欲しいよね”では寂しい。

”大都会に〜”

それを期待する私は、そこにはいなかった。

感想は両サイドあって良し。

偉そうな文章だな、コレ。

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