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【通信①】政治を志した 原点は何か?

 「人任せではいけない」

 泉健太が、合流新党の代表選挙立候補にあたって、田名部匡代参議院議員と 対談に臨みました。なぜ政治家を目指したのか、「原点」について語りました。

(田名部匡代参議院議員)泉さん、今日はよろしくお願いします。まずは、政治家を目指したきっかけは何か教えてください。

(泉健太)私は、北海道生まれの、3世代7人家族の4人兄弟の末っ子です。小さい頃、母が以前に流産を経験していたことを知りました。母の大変さを感じ、 「自分も生を受けられなかった兄の分まで生きなければ」と思いました。政治家が人の生死を左右するある意味で危険な仕事であることは、好きだった歴史の勉強で学びました。「人任せではいけない」とも感じるようになりました。

そんな時に、横路たかひろさんの北海道知事選挙に触れました。いわゆる勝手連ブームのすごい選挙で、その清新さと既存の権力を壊す力に憧れました。「私も人の役に立てる人間になりたい」。それが最初の思いです。

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(田名部)立命館大学時代に多くの出会いがあったようですね。

(泉)はい。現在にもつながる前原さん、山井さん、福山さんとの出会いです。大学の先輩に連れて行かれたのが当時日本新党の前原さんの事務所。若くて知的な印象でした。山井さんからは大学で講義を受けました。「日本の福祉を変える!」と情熱あふれる講義に心打たれ、山井ボランティアに志願しました。そこでは森山浩行さんや森本真治さんの姿もありました。そしてその山井さんから紹介をうけたのが当選前の福山さん。仕事ができて、若者の話もよく聞いてくれました。こうした方々と接し、「自分もこの先輩方と日本を変える!」との思いが強まってきたのです。

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衆議院に25歳で立候補

(田名部)そして政治の道に進まれた。

(泉)当時代表をしていた街づくりや災害ボランティア団体をNPO法人化していくことも考えたのですが、資金調達力に乏しく断念。国政に挑戦しようとしていた福山さん の参院選の学生リーダーとして事務所入りし、当選後も秘書として活動を続けました。

(田名部)秘書を経て、25歳の若さで衆議院に出馬されたのですね 。


(泉)秘書時代は必死に働いたつもりですが、何にしたって未熟者。学ぶことばかりでした。それが 数年経った25歳の時に、前原さんに呼ばれ「衆議院に立候補しないか?」と。

「答えは哲学の中に」

「いやいやいや、そんな」というのが最初の反応でした。

「地盤も、看板も、カバンもない。京都出身でもない1人の若者にできるのか」と思っていたのですが、真剣な説得を受けるうちに、「自分にもわからない時代の流れがある。そして出馬を勧められているという事は、私にもできることがあるのではないか」と、考えるようになりました。そして全国最年少で京都三区から立候補したのです。

(田名部)何もなしの「徒手空挙」ですね。よく戦えましたね。

(泉)「人はみな兄弟」の精神で、全てを経験にしようと思っていました。私は特に政治と距離があった幼児・児童・学生・若者・ホームレス・子育て中の親の皆様などと、街頭でも公園でも地域行事でも、真剣に対話しました。飛び込み、語り、受けとめるのです。

「答えは民の中にある」。これが私の政治哲学です。この行動の継続が実り、親戚も同級生もいなかった選挙区で当選することができ、以来17年間、議員を続けています。

(田名部)どうしてそこまでの活動をされたのですか。

(泉)やはり政治も政治家も行政も、国民と乖離していて、ここをつながないと国民が不幸になる、と思っていたからです。法律や徴税システムを権力者任せにする事は、自由や豊かさを手放すことにもつながります。

政治行政と国民の関係は私も皆様と同様、「自民党以外の政権運営可能な政治勢力のの構築」を目指して活動してきました。それを実現し、定着させる事は、国民の期待であり、私たちの使命ではないでしょうか。

(田名部)最後に一言お願いします。

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(泉)150名規模の新党が、国民各層と連携し、日本政界で確固たる存在となっていくために、新党に参加する私達は、互いに積極的に対話し、理解を深めていきましょう。それが結束の第一歩です。仲間意識を高め、民主的で、風通しのよい党をつくる。そして他の野党勢力とも協議し、早急に政権政策と政権構想をつくる。そこには皆様のお力が絶対に必要です。ぜひ素晴らしい党をつくりましょう。





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