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原作ルパンとカリ城ルパン

(前略)

この辺の話は、前からあちこちでチョコチョコと触れていた事ではあるんですが、「一度きっちり纏めて喋っておきたい」「文章化しておきたい」という頭があって、「カリ城」がテレビ放映された時にでも日記に書こうと考えていたんですが、なかなかその機会はありませんでした。

 (中略)

今日日のルパンファンの中で無闇に非情・非道って部分を強調したがる人々がおりますけど、それに対して僕が「それは大間違いだ」と思うのは、そういった捉え方ってのは決定的に原作を読み間違えた結果だとしか思えないからなんです。僕らが何故ルパンをピカレスクヒーローとして受け入れられるか?と言えばそれは、彼がモラルなりルールなりに縛られない存在だからというのがありつつ、それでも絶対に越えてはならない一線を越えないから、当たり前の善悪の分別を絶妙なバランスで保っているからこそであって、その辺をきちんと押さえておかないと、公式マガジンに掲載されたルパン漫画「華麗なる標的」のような結果にしかならないと思うんですよ。

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「DEAD OR ALIVE」の際に原作者モンキー・パンチ先生が不用意にした発言に「女性をほっぽりだしても自分は逃げると。そういう冷たさみたいなものをルパンはもっているのだ、と。戦うときも女の子をかばって戦うなんてしないでいい、と」ってのがありましたけど、それに変に感化されて「ルパンは非情なんだ」「非道なんだ」と言いたがるファンってのが増えちゃったんだろうと思うんですが、あれはもう原作者自身も読み間違っちゃってるだろうと僕なんかは思うんですよ。「DEAD OR ALIVE」に引き付けて言えば、それじゃあオーリをほっぽり出して自分だけ逃げるルパンを描いたとして、それが魅力になるんですか?と言いたくなっちゃう。それをギャグで落とす・落とせるというんであればまだアレですが、そういった線を狙ってる訳でもないようですから「何言ってんだろう」としか思えなくて。

自分が関わった『好ましい』人物を見捨てて自分の利益・保身だけを考えるとか、あるいは手当り次第に無軌道に殺人やレイプを繰り返すとか、あるいは盗みを働く為には一切の手段を選ばないとか、もしもルパンがそんな人物だったとして、そんな主人公の一体何処が格好良いんですか?と。『義賊』って言葉に対するアレルギーがファンの間では(あるいはモンキー・パンチ先生の中でも)かなり強かったりするみたいですけど、ルパンってのは充分に義賊だと思うし、だからこそ格好良いんだと思うんですよ。

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盗んだ金品を貧乏人に分け与えるとか、そうしたとこまで行ってしまうと確かに現代の僕らの感覚としてはどうしても偽善っぽさを感じてしまって白けてしまうとは思うんですが、流石にそうした解釈で描かれた事ってのは無い訳で…つまりその辺のバランスを現代的にチューニングしたネオ義賊みたいなもんがルパンだろうと思うんですよね。大昔のカビの生えた義賊ではないけれど、時代に合わせて再構築された義賊ではあると。だから「ルパンは義賊ではない」みたいな捉え方をしてしまうのは物凄く雑だと思うし、本質を見誤ってると思うんですよね。 

 (中略)

原作者が必ずしも自作を客観的に理解出来ているとは限らないですかんね。わはは。…と言うか、パンチ先生の『誤読』については「カリ城」を不必要に意識してしまった結果なんだろうって気はします。結果的に「カリ城」は非常に多くの観客に熱烈に支持された記念碑的な作品となった訳ですけど、その世間的な人気の高まりに反比例するような格好で、ファンの間に結構な数のアンチ「カリ城」派をも生んでしまったという背景があって、その辺の流れの中でパンチ先生までもが翻弄されてしまったんじゃないかと僕は見ています。

まぁその…その手のファンが「『カリ城』は宮崎作品であってルパンではない」といったような幼稚な把握しか出来ていないのに対して、流石にパンチ先生はそういった事は無く、あくまでも「僕が描いたルパンとは違う」としか言っていない辺りが聡明だとは思うんですが、それでもその「違う」という言葉に惑わされてしまった面があるんじゃないかなぁと思うんですよ。

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実際に「カリ城」は宮崎駿のテイストで纏められた作品で…それは当たり前の事なんですけど…だからと言って全然別物になってしまってるって訳じゃあないんだってのが肝腎なところで、確かに宮崎駿的なハートウォーミングな面が強調されてはいるんだけれど、骨格そのものはあくまでも原作のルパンがベースになってるんですよね実は。その辺、雑な見方しか出来ない人なんかは印象だけを根拠にして「ルパンじゃない」なんて寝言を口にしますけど、「カリ城」と原作のルパン像っての実は基本ラインは大して変わってないですし、そもそもがハートウォーミング云々にしたところで、原作にもそうした側面が含まれているエピソードがいくらでもある訳で。

それでも勿論「全く原作のまんま」って訳ではなくて「宮崎駿が解釈して再構築したルパン」な訳ですから、ニュアンスが違う面は当然ある訳で…そうじゃなきゃ意味が無いだろうとも思うんですが…そうやって原作の様々な要素を取捨選択し、新たな要素を付け加えた結果として、原作の、特に初期に濃厚だった『大人の男のファンタジー』的な側面が抑えられているってのは実際そうであって、そこの部分は確かに「違う」んですが、その「違う」という言葉が、いつの間にか一人歩きしちゃってると思うんですよ。

パンチ先生が「僕が描いたルパンと『カリ城』のルパンは(ニュアンスが)違う(面もある)」とだけ言ってる分には何もおかしい事は無いんですけど、その「違う」ってのを変に意識し過ぎて、「いかなる場合も女子供に対しては冷酷で、利己的な行動しかしないのがルパンである」みたいな事を言い始めると歪つになっちゃうんですよね。貴方が創ったルパンってのはそんな人物じゃあなかったでしょうと。「カリ城」のルパンは「クラリスを救った」から、それとは違う『元々のルパン』は「女はほったらかして逃げるんだ」「女の子を守って戦ったりはしないんだ」とか、いつの間にか否定の為の否定になってしまって、『非道で非情なルパン』という歪つなルパン像、ありもしないルパン像を紡いでしまったんじゃないか?と思います。

まぁ原作の初期も初期の頃には「自分さえ良ければ構わない」といったような側面もあると言えばあって、『大人の男』が単純にスカッとする為だけの描写に溢れていたりもした訳ですけど…だからと言って単なる『欲望の解放』に終始していた訳ではなく、ルパンによって大きな被害を受けるのは『そうなるだけの理由がある』人物だったりとかいった具合に何かしらのコードのようなものが設定されているのが殆どで、そうやってあくまでも義賊的な範疇に着地するように出来ている訳ですから、それを単純に「ルパンは非情である」とかいった具合に大看板にして強調してしまうと意味が変わっちゃうだろうと思うんですよ。

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パンチ先生はそういったような具合のバランスの取り方を半ば無意識にやってたんだろうと思うんですが、「カリ城」との比較という事を考える際に、自作の再認識に失敗して肝腎な部分を失念してしまったんじゃないか?って気がします。 

 (中略)

ルパン三世というキャラクターを考える際に、原作初期の段階ではまだ揺れていた部分、そうやってキャラクターが完全には確定せずに揺れていた混沌期だったからこそ迷走していたような異質な部分、だけどその後やはり「キャラクターにそぐわない」と判断されてオミットされたんであろう側面として、『犬の首』問題ってのはかなり象徴的な存在だと僕は考えております。

この日記を読んでいる人で「原作ルパンをいずれは読むつもりだけど、まだ読んでいない」という方はいらっしゃらないだろうと思いますから、件のエピソードの内容について、特に伏せずにそのまま喋りますが…原作(旧)第51話「ハプニング」の回のルパンは、ある人物を脅す為だけに、その人物の飼犬を惨殺してしまうんですよね。しかもルパンに脅されるその人物ってのが、別にルパンに敵対する悪党という訳でもない、単なる善良な市民だというのが更に始末の悪いところで、つまり此処でのルパンってのは、ただ闇雲に非情で非道な屑として描かれています。

ただまぁこのエピソードの場合は「他人から依頼されて強盗のレクチャーを行なっている」「酷い酩酊状態である」といった具合に一応の言い訳が用意されてはいて、だから「正常な状態のルパンとは言えない(かも知れない)」というのはあるんですが、それにしたところで「だから許される」と簡単に済ませてしまうのは到底無理な程に不必要な残酷さを帯びていますから、極めて読後感が悪い描写になってしまっています。「ルパンじゃない」という言い回しを敢えて使うんであれば、こうしたルパン像に対してこそ使うべきでしょう。

いくらルパンが泥棒である悪党であるピカレスクヒーローであると言ったところで、越えては不味い一線というものがあって、あくまでも怪盗としての範疇・義賊としての範疇に踏みとどまっていなければ、どうしても破綻してしまうという事が厳然としてあるんだと思うんですよね。シンプルで直球な、清廉潔白で公明正大なヒーローではないにせよ、かと言って無軌道な悪事を無制限に許されている存在ではないってのがルパン三世というキャラクターだろうと。だからこそ、この「ハプニング」で見られたような『闇雲に冷酷なルパン』という解釈はその後すっかり姿を消してしまった訳で。その辺の事はきちんと把握しておくべきだろうと僕は思います。  

(※初出 / mixi / 2010年5月11日)(※抜粋)