見出し画像

「風魔」絵コンテ(シーン26)

画像1

操車場の場面。この場面が大塚康生の趣味全開となっているのは解説にもある通りです。解説では続けて「(※大塚康生が担当した)5つのシークエンスのうち、もっともカメラワークが盛ん。横並びの機関車群の横PAN、光の当たった機関車のトラック・アップ、機関庫全景を捉えた縦のPANなど、機関車の物量・大きさを表現するカットにカメラワークが集中」「対峙の緊張感をFix(固定)の長回しで表現し、ルパンが放り投げた壷の空中FOLLOW、五エ門が壷を慎重に地面に置く長いPAN DOWNの緩急が効果的」「転車台(ターンテーブル)で人質と壷を交換するという、作動原理重視のアイデアも秀逸」と纏めておりますが…これが余りにも的確なので、後はもう特に付け加える事がありません(苦笑)

まずやっぱり操車場という場面設定が効いてるんですよね。「大塚康生の趣味だから」というのがありつつ、ただ単に「好きだから出した」というのでは終わらずに、きっちりと隅々まで有効に使い切っている辺りが実に素晴らしいところです。「風魔」という作品はホント、それぞれの場面場面で、舞台となった場所を極めて有機的に活用しており、それはつまり「その場所ならでは」の特色を巧みに活かす事で、「その場所ならでは」の面白いアクションを次々に描いてみせたり、あるいは物語の展開と密接に絡めたりするといった具合の工夫が、それこそ全編に渡って徹底されている訳だけれど…その中でも特にこの操車場の場面は、そういった工夫の冴えが際立っていると言えるでしょう。

画像2

投光器代わりに使用された機関車の前照灯、人質・紫の身柄が隠されていた煙室胴(機関車の車体前方に位置する円筒部分)、人質と壷の交換に利用された転車台、そしてルパン一家が脱出に使用した機関車(将に"デウス・エクス・マキナ(機械仕掛けの神)")…といった具合に、物語の舞台と物語自体とが極めて密接に繋がっている面白さ。更に此処で肝腎なのは、此処で為されている『工夫』が実は二層構造になっているだろうという点です。

二層構造ってのは果たして何の事かと言うと…舞台の特徴を活かしたアクション描写や物語展開を用意する事で、「画面的・作品的な面白さを高めよう」「作品を深みのある物にしよう」とした作り手・大塚康生の『工夫』と、取り引きを円滑に運ぶ為に、その場所を有効に使い切った風魔一族とルパン一家の『工夫』とがぴったり重なっているんだという事です。これが実は物凄く重要だろうと。つまり作品の内と外とが同期してるんですよね。

更に言えば「風魔一族が、彼等なりに色々と知恵を絞った結果として、操車場を取り引き場所に指定したんだろう」という補完が容易に出来るのは、設定に無理が無いから、設定の膨らまし方に無理が無いからなんですよね。ただ単に作品の見せ場として要請されるからというのではなく、舞台と登場人物達とを上手く結び付けて動かした結果としての創作だからこそ、非常に作品が『活きている』んだってのはきちんと押さえておく必要があるでしょう。そもそもは「好きだから」という事で出したであろう操車場という舞台設定を、個人的な趣味性の満足では終わらせずに、作品の魅力を高める為の工夫を凝らして、きっちりと有効に使い切っている辺り、流石は一流のプロフェッショナルならではの仕事です。

画像3

人質と壷との交換の段で転車台を使うというアイデアなんかは特に出色でした。転車台の向こうとこっちで見詰め合う五右衛門と紫。弧を描く転車台の動きと、それに伴う画面の変化。変わらずにお互いから目を離さない二人。物語の変化と画面の動きとが密接にリンクしつつ、独特の緊張感を高めている工夫は実に効果的でしたね。

そしてまた解説にもあるように、この操車場の場面では(他の大塚康生担当場面に較べて)カメラワークが多用されているってのが大きな特徴としてある訳ですが…それはまず、この舞台ならではの面白さを伝えよう・描こうというのがある上で、普通の観客にとっては馴染みの無い存在であろう操車場ってのが、果たしてどんな場所なのか?ってのを説明する為に恐らくは使われているんだろうと思うんだけれど…そういった具合の背景描写というものが、物語展開の中で極めて自然に為されているというのが、これまた肝腎な点です。

カメラワークと言えば、やっぱり解説で指摘されているように、空中でキャッチした壷を五右衛門が慎重に地面に置く場面ではPAN DOWNが使用されており、これが極めて印象的だったりするんだけれど…何故印象的なのか?と言えば、わざわざ律儀に面倒臭い作画をこなして、カットを割らずにPANしているから、だから目を惹くってのがあると思うんですよ。「おッ?」と思っちゃう。それは別に作画どうこうに特別な興味を持っていない人でも、やっぱり「おッ?」と感じるんじゃないかと思うんだけれど…あそこの滑らかなアニメーションってのはやっぱり目を惹いちゃう引力があるんですよね(それは「省エネな電気紙芝居的アニメに慣らされてしまった目だから」という悲しい現実があるからこそ、と言えるのかも知れないけれど)。

画像4

それで何が言いたいかというと…あのPAN DOWNで無意識に「おッ?」と思っちゃうから、だから其処で描かれる『壷を慎重に地面に置く』という五右衛門の行動自体にも観客の注意が向けられるようになっている気がするって事です。もしも仮にあの場面がPAN DOWNではなく、カットを割って繋いでいたら、かなり感触が違ってただろうと思うんですよ。つまりあのPAN DOWNには、『壷を慎重に地面に置く五右衛門』という重要な描写(※)に注目させる効果が含まれていたのではないかと思う訳です。

(※)五右衛門にとってあの壷が如何に大事な物であるかってのは、あの五右衛門の態度に如実に顕われている訳だから、それに念を押す「この壷は紫殿の命!」云々という彼の台詞は、実際には不要だったりする位なんですよね。その意味ではちょっと残念と言えば残念ではあります。非常に優れた画面を達成し、その中で雄弁に全てが語られているにも関わらず、どうしても台詞・言葉で念押しをしてしまうってのは、例えば宮崎駿などにも見受けられる兆候だったりして…そういった具合に、大塚康生や宮崎駿のような優れた人達ですら、その辺の呪縛から抜け出すのが困難だというのは、実にどうも恐ろしい事です。とは言いつつ…やっぱり台詞で念を押さなければ、どうしても少し弱いかなぁとも思えるんですけどね(苦笑) どうなんだろな。む~~ん…。難しいものです。閑話休題。

もっとも、大塚康生本人にとってみれば「PAN DOWNで注意を惹く」というのは本意ではなく、単に「きちんとアニメートしたい」からこそのPAN DOWNだったのかも知れませんが…果たしてその意図があったにせよ無かったにせよ…あのカメラワークによって上記のような効果が生じているんじゃないか?と僕は思ってます。

更に言えば、あの場面でPAN DOWNを選択したのは…実際はどうだったのか判りませんが仮に…ただ単に「きちんとアニメートしたかったから」だったとして、それはアニメーションに拘りを持っている大塚康生だからという事もありつつ、何しろあの五右衛門の行動・態度ってのが、彼の人柄や立場や価値基準を示す極めて重要な意味を帯びている重要な箇所であるからこそ、だから余計に「きちんとアニメートしたい」という欲求が湧き、だからこそPAN DOWNを選択したんだってのがあるんじゃないかとも思うんですよね。それが意識的だったにせよ無意識的だったにせよ。

(※初出 / mixi / 2012年12月4日)