魂の系譜
(前略)
「表層だけを倣ったところで、それだけではどうにもならない」というのは全くもってその通りであって…偉大な先行作品がまずあって、その高みを目指すというんであれば、ストーリーのフォーマットだとか、あるいは画風だとか、そういった上っ面『だけ』を借りてきて模倣したところで、そんなもんは劣化コピーにしかならないんですよね。
物語の骨格を流用するというのは創作の世界(特に大衆芸術の場合)において当たり前に行なわれている方法ではあるんだけれど、それもこれも「借りてきた上で何を行なうか」が肝腎な点であって、ただ漫然と気軽に手軽に真似をするだけなんであれば、それは縮小再生産にしかならないんだってのが厳然とある訳です。
特にストーリー云々ってのは観客が注目し易い部分であって…それは「言葉によって語り易い」という事もあるから余計にそうだってのがあるんだろうと思うんですが…特にまぁ日本人の場合、およそ不必要な位にストーリーが云々という事で作品を捉えがちだってのがありますから、先行作品のストーリーなり世界観なりを借用するといった手法も、だから極めて頻繁に行なわれがちであって…実際まぁそもそもが「カリ城」なんかにしても王道の『物語』を借用しているに過ぎず、そうした意味ではつまり、「カリ城」のストーリー面だけを大雑把に抜き出して言えば、其処で特に何か新しい事だとか独特な事が試みられているという訳ではないんだというのが肝腎なところでしょう。
だからその「カリ城」の骨格だけを借りてきて、それでどうにかなるか?と言えば「そんなもん、どうにもならんだろう」と。「カリ城」が何故傑作であるか?と言えば、それは作画面と演出面において極めて素晴らしい仕事が為されたからこそなんであって、その部分を無視して、ストーリーなり道具立てなりだけを抜き出したところで何の意味も無いですよ、そんなもん。
宮崎駿的なスタジオジブリ的な世界観を模倣する手合いってのがプロ・アマ問わず結構いる訳だけれど、それらの大半が愚にもつかない三流作品に堕してしまっているのは何故か?と言えば、身の丈に合わない事をやっているからなんですよね。地の部分が透けて見えてしまう。まぁ本人達は憧れを持ってやってるんだろうけれど、結局のところ本当には愛していない世界を無理に背伸びして掴もうとしていたり、素養が無いのに格好だけ真似しようとしていたりで、だから何処かで品が無かったり薄っぺらかったりするのがパターンになっている訳で。センスなり素養なりを持ち合わせない人間が、借りてきたブランド品で身を固めて粋がったところで、そんなもんはみっともないだけで、すぐにお里が知れてしまうんですよね。
「『カリ城』のような作品を作る」あるいは「『風魔』のような作品を作る」というのは、先行作品の表層を安易に倣るという事では無しに、それらの傑作を作り上げた作り手の情熱や心意気などを見習って、それと同じだけのエネルギーを注ぐように努力し、引き継ぐべき技術を出来る限り引き継ぎ、出来ればそれを更に発展・前進させる位の意欲が無ければ全然話にはならないんだという事ですね。
「カリ城」以降(特にTVSPにおいて)、「カリ城」の影響を受けた作品が量産された訳だけれど、それらが結局エピゴーネンでしかなかったのは何故なのか?、そんな中でおよそ唯一、評価に値する作品として「風魔」を挙げる事が出来るのは何故なのか?と言えば、その答えはつまりそういう事だと。
必要な武器を全部揃えて、それらの武器をきちんと使いこなせる人間が、本気で立ち向かわない限りは勝ち目なんかある筈が無いだろうという…これは当たり前の話だと思うんだけれど、何だか無闇に、全く何の勝算も無しに無謀な特攻ばかりを繰り返した平成ルパンの歴史。作り手の側が事態を全く判っていないんだか、判ってはいるけど向き合いたくないんだか、きちんと向き合わずに適当な事をやってもチョロい客は騙せると踏んだのか…何にしろ実に不愉快な暗黒時代でござーます。
(※初出 / mixi / 2010年6月26日)(※抜粋)