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反則映画

昨日の「金曜ロードショー」で「マモー編」が放映されていたので、作業しつつのBGM代わりに流しっ放しにしとこうと思ってたんですが、何だか結局作業はおざなりになって、それなりに真面目に鑑賞してしまいました(苦笑)

数あるルパン作品の中でも「マモー編」と「カリ城」ってのは、僕がもっとも繰り返し観た作品であって…ながら見などを含めれば、多分これまでに見た回数ってのはそれこそ50回とか100回とか、そういった単位になっちゃうだろうって程だったりします。もっと言えば、ルパン作品という枠を取っ払って、あらゆる映像作品を視野に入れた場合でも、やっぱり僕がもっとも繰り返し鑑賞した作品てのは「マモー編」と「カリ城」の二本て事になるんじゃないかなぁと思うんですが…そんだけ繰り返し観ててもテレビ放映されてんのをまた観ちゃうんだから、ちょっとホントもう我ながら異常な程に愛しちゃってますね。

そんなこんなで何だか無闇に気分が盛り上がってるので、今日は「マモー編」についてを徒然にあれこれ語ってみようかなと思います。

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と…その前に。さっきからマモー編マモー編と繰り返してますが、本作の正式タイトルは「ルパン三世」だけであって本来は副題が無いんですが、後に作られた他の劇場用作品と区別する為に副題が便宜上必要になってる…なんて事はルパンファンにとっては今更説明の必要の無い常識な訳ですが…この副題ってのが「ルパンvs複製人間」「マモーとの対決」「ルパンvsクローン」などなど色々あったりするんですよね。 

で、最近はどうも「ルパンvs複製人間」ってのに殆ど統一されつつあるようですが、アタシはこの副題を絶対に口にしたくないんですよ。だってこれ物凄く無神経にネタバレしてるでしょう。こんな馬鹿な副題があるかよとアタシはもうホント強く言いたい。あり得ないよ、こんな副題。なのでアタシは常に「マモー編」で通してます。

その辺のあれこれを何だか拘らずにはいられなくて…他にも例えば「PARTIII」の事を「パースリ」と略すのがファンの間で広く浸透してたりしますけど、これまたアタシはただの一度も使った事が無かったりします。だってこれ、物凄く馬鹿っぽくないですか? 「パースリ」って何だか物凄く頭が悪い響きにしか感じられなくて、アタシは大ッ嫌いなんですよ。とか言いつつ…「カリオストロの城」の略称である「カリ城」を、どうしてもアタシは「カリジョウ」と発音しちゃうんですよね(苦笑) 「カリオストロのシロ」なんだから、それを略したら「カリシロ」であって、実際それが圧倒的に主流なんですが…今更矯正も出来なくて(苦笑) 閑話休題。

僕が何故こうまで「マモー編」を好きなのか?って言うと、演出がどうだとか作画がどうだとかストーリーがどうだとか色々な理由がある訳ですけど、それに加えて重要なのは、この作品が実に反則な映画だからってのがあったりします。これは「カリ城」も含めてそうだと思うんですが…この「マモー編」と「カリ城」という二大劇場用作品って、どっちも極めて反則の映画なんですよね。
物凄く対照的な存在である「マモー編」と「カリ城」って、根本部分で非常に共通してる面があって、それは何かと言えば、『非常に個性の強い監督が』『それまでのシリーズに対する的確な批評を込めつつ』『大胆に読み替えて再構築した』作品であるという事が非常に重要だろうと思うんですよ。だからこその傑作だったし、だからこその映画だったし、だからこその事件だったんだと。

特に「マモー編」の場合、吉川惣司監督によるシリーズへの分析なり批評なりが、より直接的なのがミソで…例えばこれ、レギュラーキャラクター達がこんだけ己れ自身についてを語る作品って他に無いだろうと思うんですよ。とにかく全編が自己言及だと言っていい位に語ってますよね。それがまた実に的確である事、そしてそれまでのシリーズでは決して明確にされなかった事をあっさりと口にしてるってのが肝腎な点で、本来それまでの「ルパン」ってのは、旧ルではチョコチョコありましたけど、こうまで心情をストレートに語るって事を割に避けてきたような作品な訳ですから、その辺で余計にこれは『あり得ない』事だったと言えるだろうと思うんですよね。

それだけでもう反則な映画なんですが、更に何が反則・横紙破り・掟破り・卓袱台返しだったかと言えば…これまた全編に鏤められたエピソードの数々が、それまでのシリーズの常識を悉く破壊しまくっている点にあるだろうと。何しろ主人公のルパンが死んじゃうとこから物語が始まる訳でしょう。絶対に死なない筈の主人公が冒頭でいきなり死刑執行されちゃってんですよ。何ですかそれは。反則もいいとこですよね。

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そんでまた御丁寧な事に、映画全編に渡って『死』のイメージを巧妙に潜ませているのが悪質。ストーリー自体が『不老不死に執着する』マモーとの対決な訳ですから、どうしたって『死』云々というのが関係してくる訳ですし、『仏像』だの『ドラキュラ城の棺桶』だの『ピラミッド』だのといった道具立てなんかも、『死』周辺のアイテムとして判り易く並べられている訳ですが…そういった本筋とは別の部分、全く関係の無いところでも常に『死』のイメージが画面に付き纏ってるんですよね。

『ドラキュラ城で銭形が振り回す板切れ』『スケール移動装置』『不二子が眠る屋敷の窓枠』『待ち合わせ場所の墓地の墓石』『アジトの焼け跡に残った柱』『次元が蹴飛ばすアジトの焼け跡の柱』『拘束用椅子』…といった具合に、ホントしつこい位に『十字架』の形が繰り返し画面に映り込んでいるのが実に巧妙。こんだけ続いてるとこれはもう偶然とかじゃなくって、狙ってやってるんだろうとしか思えません。

まぁ墓地に十字架があるのは当たり前なんですけど、わざわざ墓地という場所を舞台に設定してる辺りが巧妙で、よく考えれば不二子とフリンチとの待ち合わせ場所が墓地である必然性ってのは本来何処にも無いんですよね。だからこれホント、およそ確信犯的に『十字架』を捩じ込んで、潜在意識レベルで印象を操作しようという企みがあったんだろうと、アタシはそんな風に睨んでおります。

反則の話に戻れば…冒頭でいきなり主人公のルパンが死んじゃうのに始まって、とにかくこれ、『それまでのシリーズでは決して考えられなかった』展開の目白押しなんですよね。『それまでのシリーズ』と言い切ってしまうと多少語弊があるかも知れませんが、少なくとも新ル当時の常識、新ルパンというシリーズの延長としては『絶対にあり得ない』筈だった展開に満ち溢れている作品が「マモー編」だったんだと言えるだろうと思うんですよ。

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まずこれ、作品全体と言うか根本部分と言うかがSFでしょう。まぁ原作でも既に魔毛狂介のエピソードだとかがあったりして、「ルパン」と古典SFってのは相性が良い取り合わせではあるんだけれど、流石にこうまでSF巨編!な作品がまさか出て来るとは誰も思ってなかった筈で、これはいくら何でも飛躍しすぎ。「『カリ城』は『ルパン』ではない」なんて間の抜けた事を口にするファンが結構いたりしますけど、それを言うんなら、それと同じように「マモー編」だって「ルパン」じゃあないんですよ。こんなハードSFなんて、それまでの「ルパン」の世界からは大きく逸脱してる訳で。だけど、それが駄目な事だとは僕は全く思いません。「ルパンである」とか「ない」とか、そんな事は全く何の意味も無い空疎な観念でしかないと思うんですよね。「マモー編」ってのは、監督の吉川惣司が、吉川惣司お得意の古典SFのエッセンスを無理矢理に「ルパン」という作品に押し込めた問題作ですよ。

そしてまた、時代背景を抜きには考えられないんだって面もあって…何しろ「マモー編」が公開された78年ってのは、前年の「スター・ウォーズ」に始まるSF映画ブームのド真ん中な訳でしょう。翌年には「007/ムーンレイカー」が公開されている訳ですよ。「ルパン」の源流のひとつである007が宇宙へ行っちゃった時代な訳ですよ。そういった潮流の中にあって、尚且つ吉川惣司が監督をしたんだって事があって、だからこそ「マモー編」てのはSF巨編になっちゃったんだってのがある訳で…単純にそれまでの「ルパン」の延長で映画を作ってたとしたら「マモー編」なんか出来る筈がなかっただろう、と。とにかくだからホント「マモー編」てのは極めて野心的な異色作であって、決して「これぞルパン」といったような作品じゃあなかったんですよね。そんなもんは全部、後付けに過ぎないんですよ。

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全体の話から個別のキャラクターレベルに話を戻すならーー
次元と五右ェ門が大喧嘩をする事、次元と五右ェ門がルパンに愛想を尽かして去ってしまう事、不二子がルパンに対する愛を面と向かって口にする事、斬鉄剣が折れてしまう事、銭形の家族についてが語られる事、銭形が辞職してしまう事、ルパンと不二子がキスをする事、ルパンと銭形が一時休戦して協力し合う事などなど…これら全て『あり得ない』展開ですよね。とにかくそれまでの常識だとか予定調和のようなものが徹底的に排除され破壊されていて、だからそれが衝撃的であると同時に、奇妙なカタルシスだとか説得力だとか緊張感だとかリアリティだとかを生んでいたって事になるだろうと僕は思うんです。

だからホントこれ、実に反則な作品だったし、だからこそ『事件』であり『映画』であり『傑作』だったんだと言えるんじゃないか、と。「マモー編」と「カリ城」とが二大傑作として輝いているのは、その点で突出してたからであって、それこそが非常に肝腎な点なんだと僕は考えています。

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※以下、コメント欄より抜粋

「マモー編」の場合はオールドファンにとって(?)ある意味理想的なキャラ造型が為されているので騙されちゃうってのがあるんですが、実は猛烈に特殊な作品だし、一種の理想型であるキャラ解釈すらも吉川惣司独特のものになってると思うんですよ。あまりにも傑作であまりにも理想的だったのでスタンダード化・古典化・標準化しちゃっただけで、作品が誕生した時点では極めて問題作だったという点において、「マモー編」と「カリ城」ってのは実は双璧になってるだろうと。 

「カリ城」なんかの場合は後続作品群への影響が問題視される事が多い訳ですけど、同様に「マモー編」の影響も後のシリーズを決定的に左右している面があって、例えばルパン・次元・五右ェ門の三人組が反目し合う展開なんてのは、特にTVSP初期などで表面的に模倣されていた構図であって、そういった具合の劣化コピーと言うかエピゴーネンと言うかの存在を考えると、『傑作であるが故の功罪』みたいな事に思い至ってしまう面もあったりして。 

そういった具合に「マモー編」「カリ城」という問題作・野心作で描かれた様々な反則が、両作があまりの完成度と魅力とを備えた作品だったが為に、その後の作品群で不用意に安直に模倣され、やがて定番化・常態化してしまったってのが実に残念なところで、それはやっぱり「シリーズが続いてしまった」が故の「後続スタッフの志しが低かった」が故の皮肉な展開だなぁと思うところです。本来は『反則』だった筈のものが『安直なお約束』のような格好で繰り返されてしまったなんてのは、ある意味悪質な冗談ですよね。

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キャラ解釈に関しては…「新ルとは明確に一線を画しているけども、原作や旧ルには近いテイストである」ってのは僕もそうだとは思うんですが、それでもやっぱり「マモー編」ってのは、原作や旧ルとは違った角度からのアプローチ((C)スタッキー大統領特別補佐官)が為されていて、これは「マモー編」独特の、吉川惣司独特のキャラ解釈だと僕は思うんですよ。確かに似ている部分、共通している部分があったりはするんですが、それらを踏まえて更に過激に表現したり、徹底的に描写する事で、全く違った魅力を付加していると思うんですよね。 

例えば「次元達が大喧嘩をする」だとか「不二子がルパンへの想いを口にする」だとかいったような描写は、似たシークエンスが原作なり旧ルなりなどでも見られた構図だったりはするにせよ、「マモー編」程に深刻に描かれた事ってのはそれまでには無かったり、あるいはそういった諸々が連発している点が「マモー編」の一種独特なところだと思うんですよね。一個一個の要素を見れば、それまでの作品が既に内包していた要素の発展系だったりはするんですが、それらがギュウ詰めに詰め込まれている事で一種独特の異様さがあるだろうと。その上で更に「マモー編」ならではのキャラ解釈が要所要所に挿入されているので、原点回帰という言葉だけでは括れないんじゃないかなぁと思うんですよね。

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ルパン自身が反逆児であって、硬直化してしまった世界を鮮やかに軽やかに突破してみせる存在ですかんね。様々な顔を持ち、容易に正体を明かさない男・ルパン三世。「ルパン」って作品はそれこそ常に問題作であり事件でなくちゃなんないんだと思います。そうでなきゃ、それこそ「ルパン」じゃないだろうってところで。うしし。

(※初出 / mixi / 2009年6月20日)