八郎潟の夕陽

限りなく絶望の果てにある希望

どうしても書きたかった。理屈ではない。地平線の彼方へ沈みゆく太陽はまた昇ってくるのだろうか。

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まだ東日本大震災の前だった。あの日「徳島阿波踊り空港」から「青森港」まで4トントラックを運んでいた。乗り捨てられたレンタカーを運ぶためだ。

この仕事を、運輸業界では「回送業」という。乗り捨てたレンタカーは、専門の回収業者が受託して、委託ドライバーへケータイで指示を飛ばす。その実情は、漆黒のブラックに限りなく近いグレーな産業である。

ガラケーへ届いたメールの指示は、走行距離1500kmを36時間以内で運ぶこと。基本的には一般国道だけで運ぶ。高速道路は使わない指示なのだ。平均時速が50Kmならばノンストップで30時間で着くが、給油や、休憩を含めば、ギリギリの計算になる。

淡路島を超えて、明石海峡大橋を渡ると、本州の灯りを見下ろすように海を渡った。琵琶湖を抜けて、北陸を抜けて、日本海側を走れば、目指す港はある。

人に会いたくなくて、たまたまバイト誌でみつけた。人を信じられないなら、機械のように働くブラックな工場にでもすれば良かったのかもしれない。だけど、そんな気分にもなれなかった。ただ、人と関わりたくなかった。

回送は、いったん現住所の出発地点を出ると、2週間以上は戻ってこない。そのくらいの期間を指定しないと、ロングの仕事が回ってこない。この仕事もタクシーと構造は一緒で、如何に長距離を本社の配車係から回してもらうか?が稼ぎを決める。距離に応じて賃料が決まるからだ。

僕はこの2週間の回送に出る事を、船に例えて「航海」と呼んでいた。1航海・2週間が目安だ。航海中は、車中の仮眠か、次のピックアップ先へ移動中の電車かバスの中でしか仮眠できない。だから2週間が肉体の限界目安とされていた。もちろん事故ったら、委託先であるドライバーの全責任だ。保険は業者を守るためには掛けられていない。その保険はドライバーの給料から差っ引かれているのだが、運搬車両の為に保険は掛けられている。だから居眠り運転で事故を起こすと、保証だけさせられて僕らドライバーには何も残らない。弱肉強食のブラック・ビジネスとは、売り上げるものではなく、搾取によって儲けるものだった。

人は、信用の底流にある「何か」が壊れたり、自分自身の気持ちが壊れると、喪失感だけが残る。喪失感が無念と自己の否定を産み、その生存線を超えると、青白い炎が頭上から天に伸びる様子が見えるようになる。死後の世界があるとすれば、青白い炎の伸びた天空の果てにあると思う。その光景はどこまでも、彼方まで伸びて美しい。桜は散るから美しいように、人も散るから美しく思えるのかもしれない。それが錯覚なのか、リアルなのかは「その先」に行けばわかるのかもしれない。わかった時には、あっち側の人だけど。

琵琶湖の端っこの長浜を超えると、国道365号線で日本海側へ抜ける。どこまでも真っ直ぐに伸びる道は、深夜に走っているクルマなど居ない。信号も無い。あるのはガードレールだけだ。やがて越前や鯖江を超えると、小松の隣が金沢に入る。金沢の先の半島の付け根を、内陸側を走ると富山湾が見えてくる。右側の立山連峰は、まだ夜明け前で眺めることは出来ない。

ほとんどのトラックはディーゼル油で走っている。軽油と呼ばれるガソリンは普通自動車のものとは違う。最近の大型10tトラックには尿素タンクが付いていて、ディーゼル油と一緒に燃やす事で「煤」(すす)が溜まらないようになっている。しかし当時の4トンは、そんな気の効いた機能は搭載されていなかった。連続して運転していると、赤い警告灯が点灯する。「煤」が溜まったので、停車して「煤」を燃焼させてくださいという警告灯である。これを無視して1時間も走ると、エンジンが壊れてしまう。修理には何十万円もかかるらしい。だから「絶対停車」を言い渡されていた。

糸魚川のあたりで「警告灯」が点灯した。運が無いなと思った。道の駅で休憩する事にする。これまで550Km、一回も停まっていなかった。「親不知」と書かれた看板の先には、コンクリートで現代風な道の駅のビルが建っていた。エンジンをかけっぱなしにして、トイレを済ます。海岸に降りると、満潮の海岸は、波も無く静かだった。青白く光る街灯が、海岸に薄っすらと僕の影を伸ばしていた。

北陸道最大の難所で、断崖絶壁と荒波が旅人の行く手を阻み、波打ち際を駆け抜ける際に親は子を忘れ、子は親を顧みる暇がなかったことから親知らず・子知らずと呼ばれるようになった。(親不知の由来)

海岸の丸みを帯びた石を撫でて、子供の事を思い出していた。家族と別れて放浪をしている。旅とは帰る場所があるから旅なのであって、帰る場所が無いのは放浪なのだ。波の間に浮かぶ泡は、あれよあれよと消えて行った。泡の事など誰も覚えていない。泡が生まれた時も誰も覚えていない。自分も泡なのだろうか。

初冬の夜明け前は、息が白かった。空は曇天で星は見えない。大昔ならば、星が見えなければ、北前船はどうやって位置を知ったのだろう。トラックにカーナビが付いていたけど、人生の位置はわからなかった。いつから人生の地図を見失ってしまったのだろう。駐車場から海へ向かってヘッドライトが伸びてきた。赤いライトが回転したのがわかった。

地方の職務質問は、世間が寝静まった時間に行われる。一度では無かった。財布から社員証のような、なんちゃってカードの所属証を差し出す。警察官は、そんな仕事もあるのかと呆れ顔だった。少しばかり哀れみの滲んだ愛想笑いを作ると「気を付けて運転してください。ご苦労さまでした」

パトカーは国道へ戻っていった。こういう場所で拉致は行われるのだろうか。トラックに戻ってラジオをつける。微弱な電波を拾って辛うじてNHK第一放送が聴こえてきた。問題が無いのではない。「おまえは、空っぽなんだ」と警察官に言われたような気がした。確かに空っぽなのだ。もうすぐ夜が明けて来そうだった。

直江津、柏崎、長岡、三条を超えるとやっと新潟が見えてきた。だいたい半分の750Kmを走った事になる。トラックの燃料タンクは大きいけど、流石にそろそろ給油しないとマズい。ガソリンスタンドは急速に店舗が減っていた。だから、いつ入れられるか分らなかった。トラック用の大型のガソリンスタンドを探す。

ガソリンスタンドで90リッターと告げた。それで足りるだろう。燃料代の建て替えは、寂しい財布がさらに苦しくなる。領収証を3日に一回はヤマトメール便で送るように会社に言われていた。送付すると、約5~7日後に指定のゆうちょ口座に振り込まれる。ゆうちょ銀行通帳は会社に差し押さえられていて、容易に逃げれないように出来ていた。ドライバーはカードだけ渡される。そうやって振込手数料も削減しているのも執念なのだろうか。それともノウハウというのだろうか。

北上するにつれて窓からの空気が冷たくなってきた。快晴だからなおさら冷たく感じる。村上を超えると、通行量がガクっと減る。会社や工場が無くなって、田んぼの中の自動車専用の一般国道をひたすら走る。見た目は高速道路に近い。陽が傾くと寒さが増してくる。そろそろヒーターを入れる頃だった。風はキツいけど日本海は比較的穏やかだった。しかしラジオの天気予報では、今晩の青森方面は小雪がちらつきそうだった。徳島を出た頃は長袖のシャツでも大丈夫だったのに、日本は縦に長いのを実感する。

酒田、秋田を超えると、大潟村の干拓地に出た。地平線に陽が沈むのが見えた。何も考えられない。少し休憩しても、指定時間には間に合うように思えたので、路肩にトラックを寄せた。地平線の彼方へ沈みゆく太陽は、また昇ってくるのだろうか。地上に降りると、船酔いのように地面が揺れた。

陽もドップリ沈んだ。山を越えて大館を目指す、あと少しで青森だ。真っ暗闇で、景色は何も見えない。時折、風が強くトラックを大きく揺らす。アタマを下げてもトラックの背は低くならない。大きくても、横幅や、全長の長さでぶつける事はまずない。屋根を看板や鉄道ガードの天井高で削ってしまうのだ。高さは、トラックで一番気をつけなければならない事だった。特に長時間で集中力が落ちている夜が、一番危なかった。

星は見えない。冬の曇天はもうすぐ雪が降る前兆なのだろうか。トラックのチェーンを巻くのはご免だと思った。寒さはどんどん冷え込んでいった。この先、どうなるのだろうか。納車先の住所は本当に正確なのだろうか。そういう間違えは、この仕事では良くある悲劇なのだ。

山を下って、平川、黒石を超えると、もう青森港だった。フェリー乗り場の看板が見える。その交差点に面して、トラック野郎向けの24時間定食屋があった。そこでラーメンで体を温めて、仮眠をとる。レンタカー屋が開店する8時より前の7時までには納車をすれば、完了だった。

エンジンをかけてヒーターを全開にしても寒くて眠れなかった。リュックに入っている下着やタートルネックを重ね着してもまだ寒い。このあたりに入れる風呂屋も無いだろうし、コインランドリーも無さそうだった。乾燥機の温かさで寝れる時もある。1500Kmを走ったカラダは疲れ切って、思考能力はゼロに近かった。

ウトウトしながら目を瞑っていたが、結局6時にはトラックを出した。日の出る直前が一番気温が下がる。レンタカー屋の門を開けて、指定の場所へトラックを駐車した。距離メーターを記録シートに記入して、ケータイ画面に完了時刻を入力する。念じるようにボタンを押した。忘れ物が無いように確認を何度もして、事務所の横にある洗濯機の横の柱にあるキーボックスにトラックの鍵を入れた。JAF全国地図を見ると、ここから青森駅は3キロ以上もある。当然、徒歩しか移動手段は無い。リュックを背負い直すと、駅を目指して歩いた。うっすらと明るくなってきた空から、小雪がちらついてくる。高架橋の歩道は白く凍っていた。

駅の待合室に入ると、石油ヒーターが焚かれていた。リュックを降ろして長椅子に座る。やっと人間らしい空間に辿り着いたと思った。まだ7時過ぎだ。次のピックアップ先の指示のメールが来る9時までは、ここで寝れそうだった。歩いたせいで汗がひどい。汗冷えが凄かったので、下着を着換えた。待合室にいる老婆の視線は、気にならなかった。白い長そでTシャツはびっしょりと濡れていた。無事に運びきって、ここまで辿り着いた。明日の今頃は、また別の街にいるのだろう。

リュックを枕にして、目を瞑ると網膜に走ってきた道路が流れていく。あの地平線の彼方へ沈んだ夕陽は、今頃どこにいるのだろうか。これからも回送は続く。人生に、TVゲームのようなリセットは無い。桜のように綺麗に散る事もない。あるのは、惨めなほど情けない自分がいるだけだ。

希望とは、何度も訪れる絶望の先に微かに感じるものかもしれない。そんな事はどうでもよかった。今は無事に走り切った事だけで十分だ。そしてただ眠りたかった。いま僕は青森駅にいる。そして生きている。


#教養のエチュード賞

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