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SNSと自己帰属感

あの人ちょっと苦手だな、という時がある。また別の時にはあの人嫌いだな、という時がある。食べ物とかだと、苦手と嫌いは結構近い、ほぼほぼ同じ意味で使っている気がする。一方で対人間に使っている時はそこにはやや違う意味合いを含めているように思う。

試しに、苦手な食べ物があるのか、と考えを巡らせてみたものの、とはいえ実はあまりない気もする。嫌いな食べ物もほぼない。ほぼ、というか何かはある気がするが特に思い至らない程度だ。あまり参考にならなかった。

例えばTwitterやFacebookはあまりみないようにしているが、それは昨今よく言われているようにあまりSNSを取り込みすぎるとメンタルヘルスに必ずしもポジティブとはいえない影響を与えるから。仕事柄完全に止めることはできないけど、少し遠ざけて見る頻度を下げるようには出来るだけしている。

でもそれは、いわばミュートしているようなもので、それらのサービスを嫌いと表現するかどうか、というと明らかに嫌いではない。便利だし、世界を変えた素晴らしいプロダクトの一つだと思うし、なくなればいいとも思わない。SNSは終わりだ、とかいう人もいるが、今の所代替の何かは発明されていないし、まだしばらくはなくならないだろう。

現在僕は、できるだけタイムラインを見る、みてしまう時間を減らすようにしている。それは意思によってそれを成そうとするのではなく、できるだけ自分がそうしやすいシステムを模索している。これはでもずっと、SNSとの付き合い方をどうするのか、というのは変化し続けてずっと模索していることだと思うが。完全に離れることができない分。

Twitterへの投稿は特別な理由がある場合以外、Bufferというサービスを経由している。投稿をストックしておいて自動で予め決めたタイミングで送信できる。カっとなって書いたことを少し時間をおいて見直したりということもある。人間の怒りは通常は割と瞬間的なもので、短ければ10秒くらいで反射的な怒りはおさまると言われており、まあそこまででないにしろBufferしておけば見直す時間がある。

それに、最も重要なのは、投稿と閲覧の行為を分離できることだ。もちろんサービス側としては望ましい行為ではないわけだけど。本来は投稿しようとアプリを開くとタイムラインが目に入る。みないようにしてもどうしても情報は入ってくる。気付いたらついつい見てしまい、となるのはよくあることだし、そうならないとしてもパっと感情を乱されるものが目に入ってしまう時もある。要はそういう機会をできるだけ減らしたいわけだ。

そしてリアクションの有無も出来るだけ、あまり頻繁に知ってしまうのは毒だ。通知は集中力を途切れさせるし、ポストはある種のアウトプットで、また別のアウトプットをポストという形で流すにしても(このテキストもそうだろう)、アウトプットに対してのリアクションをもちろん理想的には全てを飲み込んで受け入れて消化して何の悪影響もない強いメンタルであるべきだが、まあ人間そうもいかないしそうでないことが大変おぼつかないことであるというわけでもないことはもう大体全員わかっているのでその理想は一旦さておき、とにかくツイートに対してのリアクションも沼にはまり込むと時間とメンタルを削られてしまう。そんなわけでアプリの通知も全て切っており、通知されるのではなくたまにこちらからリアクションを観測しにいく、それまではそれを自然に知ることはない、知らされることはない、という能動性を取り戻す構図にしている。

リアクションは気にしだすと、あっても、いやなくてもないことが気になってくるものだ。浮気を疑ってスマホを覗くのと一緒で(違うか?笑)、もちろん目的の疑わしいLINEが見つかればそれはそれだが、問題は何も見つからなくても結局は疑心暗鬼の心はスッキリはしないということ。ないことによって想像の余地が深まりそこに囚われてしまう。曰く、消したんじゃないかとかね。そういうのは貴重な人生という時間の無駄である。リアクションもそうで、まあ正直こんな意味のわからない(意味のない)テキストを毎日書いてポストしてみているというのも見方によっては割と点で見てしまうとちょっとキモいな…と思わないわけでもないので、いいねもファボもコメントも全然つかないが、それでいいと思っていても少し距離をおいておかないと結局「ある」ことにも「ない」ことにも耐えられなくなってしまい、本来の目的を全うできないような気がする。

あとは慣れてくると知らないうちにURLを打っていたりとか、また調べ物をしていて出てくることももちろん多々あるので、ついつい見てしまうのを防ぐためにchrome extensionでサイト自体をブロックしている。あとカスタムスタイルシートを使っていた頃もあったが、前回のリニューアル以降DOMについているIDやクラスが生成的なものになってしまってちょっとそれは難しくなった。残念。

書籍「溶けるデザイン」で「自己帰属感」という単語を学んだ。これは行為やユーザインターフェースの文脈でこの書籍では語られており、要はこれがあるということが、自分が操作しているという行為と結果の結びつきを自分に理解される。これが失われると、気持ち悪いし、操作ミスをしたりする。

頭に浮かんだものの、書いててちょっと違うかもと思いつつキーワードだけお借りして進めるが、より拡張した広い行為にも適用して考えると、キーワードは能動性。プル型プッシュ型?パッシブかどうか?メディアからの通知の濁流に飛び込みつつなお泳ぎ切る体力と技量を持つか、そうではなければ濁流をガードして必要な分だけ取り込むか。SNSの自己帰属感という言い方が正しいかはさておき、通知に飲まれてリアクションを気にしてしまっている時の自分は明らかにそのツールのコントロールを失っているわけで。

しかしここで、問題になってきて困っているのはFacebookの扱いで——

あ、時間だ。続く。

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Photo by frankie cordoba on Unsplash

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