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全て副産物にすぎないのか?

コンテンツと、メタ・コンテンツ。ここではそれを行き来していることに気づいた。ある日に書いているものはコンテンツそのものである。また別の日に書いているものはコンテンツを生み出す部分についてのものである。

コンテンツを生み出す部分についてのもの。コンテンツとは、この場合何を指しているのか?というと、それを厳密に定義することは難しい。この場合の「コンテンツ」とは「コンテンツを生み出す部分」についてではないものの全てということになるのだろう。

「コンテンツを生み出す部分」とは何を指しているのか?例えば、どういう考えでそもそもこれをやっていて、どういうシステムで書いているのか。どういう試みとしてシステムを変更したか。みたいなこと。

なぜそれを書くのか?直接的現実的にいうと、コンテンツだけでは不十分だと感じているからだろう。それは言い訳じみていると言えなくもないが、無軌道なテキストのアウトプットだけではなく、背後にあるルールに触れてもらうことが、コンテンツにとって必要だと思うからだ。いや必要?んー必要ではないな、ポジティブ、という程度かな?

今日も何かを書こうとして、フレーズ、キーワードを書き始めて、これは書けることはあるが、今、このシステムではうまくかけなそう、と思ったことはネタ帳に移動する。そしてそれは結構ある。

薄い説明だけだと燃えてしまいそうとか、ちょっと暗い話題になりすぎそうだなとか、自分の個人的事情に踏み込みすぎだなとか。まあ理由は色々あるだろう。

しかし実際そこにこそ価値があって、おおよそ、書くペースより、ネタ帳が増えていくペースの方が早い。それが面白くて続けているのだが、しかしそれは可視化されないので、副産物としての何か、だけがnoteに積み重なっている、ということになる。そりゃ意味も価値もないし、いいねもつかない。笑

じゃあネタがそんなに増えていくなら、なぜしばしばネタ不足的な発言をするのか、というとそれはもちろん「この場では使うことが難しいから」ストックしたネタであるから。それによりどれだけストックが増えても、根本的にこの場のネタ不足を解消する方向にはそれは寄与しないということになる。

しかし、ということは先ほどコンテンツ、と呼んでいるものもまた何かを生み出すためのシステムである、ならばそれもまたメタコンテンツだし、全て副産物でしかないのか?いやいや、何かをしていたら、するほど発想があるというのは普遍的な話であって、それがすなわちその「その時している何か」が副産物でしかない(つまり手段でしかない)ということにはならない、またはなったとしてもよくないことだと考えなくてもいいのでは——

時間切れ。続く。

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Photo by Allie Smith on Unsplash

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