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言葉の効能と副作用

写真は、つい先日生後3ヶ月を迎えたばかりの我が家の長男。ここ最近、右手をあげて、じーっと見つめてばかりいる。いったいなにを考えてるんでしょうね。

今日は、息子とともに生きる日々のなかで、言葉について改めて感じていることを書いてみたいと思う。

私たちが享受している言葉の“効能”

言葉には、物事を定義する役割がある。「ラベリング」というとわかりやすいかな。ある現象や事象に名前をつけて言葉で定義付けすることによって、固定化した概念として捉えられるようにする役割。

これはとても便利で有効な、言葉の効能だと思う。暮らしや仕事のなかで「わからなさ」に出会ったときに、それを言い当てる言葉の存在によって思考を整理できたり、ときには安心できたりすることもある。

そうやって先人たちの叡智にあやかりながら、日々私たちは生きているのだなぁ、と思う。

最近の象徴的な例として思い浮かぶのは、「産後クライシス」という言葉。この言葉が知られるようになったのは、おそらくここ10年以内のこと。一般的には、出産後に夫婦仲が悪くなることを示す言葉で、その主な原因は産後女性のホルモン変化にあると言われている。

産後、旦那さんに愛情を注げなかったり、必要以上にキツくあたってしまったり、女性にあらわれる症状は人それぞれ。産後、誰にでも起こりうる現象であることが、今では一般的に知られるようになった。ネットで検索すると、「産後クライシス」にまつわるたくさんの情報があふれている。

でも、この言葉が定義されて情報として知られる前は、産後女性はおおいに悩んだはず。旦那さんに愛情を注げない理由がわからず、自分を責めたこともあったかもしれない。永遠に続くかもしれない恐怖にも襲われていただろう。私の身近に実体験を持つ友人もいるし、それが原因で離婚に至った夫婦も少なくなかったと聞く。

そこに、「産後クライシス」という言葉が登場し、情報として伝わった。誰にでもある一時的な現象で、ホルモンの仕業であって、自分たちのせいではない。仕方ない。女性も男性も、そう捉えてやり過ごすことができるようになった。そして、「じゃあ、どうすればいいのかな?」と建設的に考えることができるようになった。

言葉が、情報が、家族を救ったのだ。

思考停止や興ざめを誘う言葉の“副作用”

そんな言葉の効能を享受する一方で、言葉の、いわば“副作用”もあるのでは、と私は感じている。

たとえば、冒頭の写真。これ、生後2〜3ヶ月の頃によく見られる、「ハンドリガード」という行動だと知人が教えてくれた。このように自分の手を見ている段階では、子どもはまだそれが自分の体の一部であるとわかっていないのだとか。ネットで検索してみると、この行動の後は、見るだけでなく手をしゃぶる行動を始め、「しゃぶる」感覚と「しゃぶられる」感覚が一致することによって、自分の体であると初めて認識することも知った。

「わぁ、面白い!」

私はそれを知ったとき、子どもという存在と生きることへの喜びの感情が湧き上がった。知的好奇心が満たされた感覚もあった。子どもの成長を見守る楽しみが増した瞬間でもあった。

でも一方で、なんとなく“興ざめ”感を覚えてしまったのも事実。

「はいはい、ハンドリガードね」と、息子の愛おしい行動を既にある言葉によって規定し、頭の中で情報として処理することによって、それ以上の思考や感情をシャットアウトしてしまったような感覚。

それは、日々の会話でわからないことが生じたとき、誰かがスマホで検索して答えを見つけ、あっけなく会話が終わってしまったときの思考停止感にも似ている。

あるいは、旅先の情報があふれすぎていて、本来は未知との遭遇を楽しむはずの旅が、観光地を周る「確認作業」に変わってしまっている興ざめ感にも通じるような気がするのだけど…伝わりますか?

きっとこの「ハンドリガード」、言葉によって定義され情報として知られる様になる前は、赤ちゃんのこの行動を前に、親はおおいに想像力を働かせたことだろう。

「なんで手を見るんだろう。○○してるんじゃない?」
「あ、今度はしゃぶってるよ!」

成長とともに変化する我が子の行動に一喜一憂し、想像を巡らし、夫婦であれこれ考えたり議論したり、この行動に名前をつけてみたり。「わからなさ」をめぐる対話と思考の時間をゆっくりじっくり味わっていたのかもしれない。

そんな時間は遠回り? 無意味な時間?いやいや、私はそうは思わない。

それはそれは愛おしい人生の豊かな時間だと感じるし、そんな試行錯誤や対話を重ねることによって、人は、この世を生きる術を身につけてきたのではないかとも思う。実際、この行動も一人ひとりの赤ちゃんによって微妙に違うだろうし、私の息子はその定義に当てはまらないかもしれないじゃないか。(と思う私は、天の邪鬼…?)

そんなふうに思考を巡らす機会を、固定化された言葉による情報が奪ってしまうのだとしたら、それは言葉の「副作用」なのでは、と思う。

言葉があふれている。
情報の海におぼれそうになる。

育児をしていると特に、それを痛いほどに実感する。もちろん病気に関する情報など、役立つこともたくさん。成長・発達に関する研究結果や解説が掲載されたネットの情報によって救われることもあるし、日常的におおいに活用しているのも事実。平成の育児で良かった、と思うこともしばしば。

でも一方で、言葉や情報に頼りすぎることによって失われる楽しみや豊かさもあるのでは、ということも頭の片隅に置いておきたい。既にある「答え」を最短距離で知ることが必ずしも良いとは、私にはどうしても思えないし、それが本当に「答え」かどうかなんて、誰にもわからない。

「わからなさ」から最短距離で抜け出そうとするあまり、私たちは、思考停止に陥っていないだろうか。「本当にそうだろうか」と考える力を失ってはいないだろうか。自戒の念を込めて、そんな問いをここに書き残しておきたい。

便利だからこそ、取り扱いには注意が必要な「言葉」。知ろうとすれば簡単に膨大な情報にアクセスできる今、そんな言葉の効能も副作用も理解し、自分なりの判断基準を持って接することで、言葉があふれる世の中をもっと肯定的に捉えられるのではないか、と思う。

私の中にずっと息づく想い

さて、ここからは少し私自身の話を。思えば私はこれまで、こういった言葉による「ラベリング」に必死で抗いながら生きてきたように思う。

高校生のとき、私の志望する大学よりも、いわゆる有名大学を受験するよう勧めてくる先生に、異常なほどの抵抗感を覚えた。(高校の卒業文集には、Mr.Childrenの歌の歌詞を引用し、「“栄光も成功も地位も名誉も、たいして意味ないじゃん”と言える彼らがうらやましい」なんて書いてたっけ。お恥ずかしい。笑)

就職活動のとき、「大学名で判断されたくない」と、大学名を記さない選考に敢えて応募したことも、象徴的。

大企業のSEとして働いているときは、フリーランスとして自分の名前で生きている人に心から憧れ、どこか嫉妬さえ覚えていた。(のちにフリーランスになったのは必然ですね)

きっと「○○の池田さん」ではなく、そのままの「池田美砂子」を見て!と、私の心が必死で叫んでいたのだろう。

そしてその想いは、フリーランスライターとして生きるようになった今もやはり私の中にずっと息づいている。

「ライター」というわかりやすい肩書きを掲げているけれど、お付き合いを重ねていくなかで「ライター」の枠を越えたお仕事のお声がけをいただけると、心からうれしく、力が湧いてくる思いがする。相手の方が、「ライターさんだから」という理解だけで私を見ているのではないとわかるから。

インタビューの現場では、インタビューイーの方が発した言葉をそのまま受け取り、自分の中にある言葉や情報によって処理しないように、常に心がけている。相手の表現を「あ、それはつまり〇〇ということですね」と、ついわかりやすく置き換えてしまいがちなのだけど、そうされることへの抵抗感を人一倍強く持つ私は、やはり相手にもそうしては失礼だと思っているから。

やっぱりね、人の中にある想いも世の中の現象も、すべてグラデーションとして存在しているから。それを一緒くたに言葉で枠組みをつくってしまうのは、なにか違うと思う。

この世に誰一人同じ人がいないように、同じ想いも、同じ出来事も、同じ現象も、この世にひとつも存在しない、と私は信じているから。ときどき出会う、インタビューイーの、「まだ言葉にならない」といった状況や想いのほうに、私はとてもとても、心惹かれるのだ。(書くのはもちろん、難しいのだけど)

さて。

これを書いている今も、息子は私のとなりで右手ばかり見つめている。言葉による情報のない世界で、ゆっくりどっぷり、五感をフル活用してこの世界を味わっているのだなぁ。そんな彼だけの世界を「ハンドリガードですね」で片付けてしまうのは、やっぱりもったいない、よね。

まあこんなことを考えながら、日々2人の育児に追われております。いつも私に気づきをくれる、子どもたちに感謝しながら。


貴重な時間を割いて読んでくださったこと、感謝申し上げます。みなさんの「スキ」や「サポート」、心からうれしく受け取っています。