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「急進的な産児制限」の導入

note for life(3)

「急進的な産児制限」の目論見は、この法律の十四条に定められた、特定の医師に認可される「人工妊娠中絶」によっていとも簡単に実現するところとなった。「人口削減」を目的とした中絶の導入である。”子どもが邪魔になる”ことを前提とした”間引き”の合法化である。今ならこんな趣旨の法の成立などありえないだろうが、今でもこの法の骨子と法の精神は生きている。

そもそも優生保護法とは、戦前の国民優生法の流れを汲んだ、遺伝的疾患の「断種」を主たる目的とした法律だった。その手段として不妊手術だけでなく、人工妊娠中絶の導入が画策されたのである。「断種」とはまたその言葉からして気が滅入る。遺伝学が未発達の時代だったとはいえ、優生思想の具現化などもってのほかである。しかし、1948年7月13日に成立したこの法律は、それ以上にもっと不可解で不愉快な内容をともなっていた。 

優生保護の観点から中絶が認められる具体的な疾患が規定されたのだが、それ以外にも、十三条において中絶が認められる場合として、いわゆる「強姦による妊娠」という極限状況に加え、とってつけたように以下の二つの規定が設けられた。

「分娩後一年以内の期間に更に妊娠」した場合、および「現に数人の子を有している者が更に妊娠」した場合がそれである。 

 つまるところ、「年子」と「三人目」は堕ろせ(る)、とされたのだ。 

世界に先がけた日本の中絶法バージョン1は、あろうことか、生々しいほど具体的に年子と三人目(以降)を標的にしたのである。

あえて、(る)と括弧に入れたのは、善良な市民にとってこの規定は、ほとんど(る)が消え、命令形として受け止められるに等しい性質の法制化だったからである。世界に先がけた日本の中絶合法化は、女性の権利とか個人の自由とかの問題ではなく、あくまでも人口削減のための奨励策だったことを見落としてはならない。ジンマーマン神父の記述にある、三人目の赤ちゃんに向けられた敵意は“合法的に”醸し出された世間の目だったのだ。

この規定が法律の文面から消えた後も、このときのマインドセットは社会から消えてなくならない。今でも妊娠した多くの女性に、年子と三人目の壁が立ちはだかる。結婚している夫婦であっても、年子は世間体が悪いから堕ろすようにと親親戚から圧力がかかるといった話は珍しくない。また先日の西日本新聞の記事に、三人目が産めなくて後悔する母親がリアルに登場する。

年子と上に二人以上兄姉のいる人の背筋を凍らせるこの規定は、施行後すぐさま改正論議を呼ぶ。ただしくは”改正”ではなく、”改悪”に向けて。中絶推進派の攻勢は止まらない。年子と三人目だけでは人口削減が進まないとばかりに、こんどは一人目の子でも二年ぶりの子でも、あらゆる都合の悪い子どもを標的にする。

1949年5月、朝日新聞に「解決迫られる人口問題」と題した座談会の抄録が掲載された。ここで中絶推進派の急先鋒・林 髞(たかし)は「現在の人口を四割減らすのが急務だ」とし、あわせて「社会の浄化」のために「妊娠しても堕ろすことが出来るなら、二十年後には大体パンパンガールの八十%、ヨタ者、やくざの八十%が減ると見込んでいる」と堂々と持論を述べている。

目を疑いたくなるこんなトンデモ発言が大新聞の活字になるのである。今なら林(当時慶応大学の大脳生理学の教授)が公職追放になるのはおろか、林を後押しする姿勢をみせた朝日新聞は発行禁止だろう。ところがトンデモどころか、林の主張の方向に世論は動かされ、同年、優生保護法は中絶推進派の思惑どおりのバージョンアップに成功する。

1949年6月24日、優生保護法最初の大改正。年子と三人目はターゲットでなくなり、中絶を認める規定は「妊娠の継続又は分娩が身体的又は経済的理由により母胎の健康を著しく害する恐れのある場合」の一文にまとめられた。この「経済的理由」こそ正に打ち出の小槌である。もはや年子でなくても一人目でも、事実上理由なくあらゆる中絶が認められることになった。同時に、産まれる前の子どものいのちはもれなく、「経済的理由」という名の親たちの現在の都合と天秤にかけられることになった。

こうして、ジンマーマン神父の証言によれば「ほとんどの家庭で日常茶飯事として人工妊娠中絶が行われる」ようになり、「家族計画の約三分の二は人工避妊でなく人工妊娠中絶によって達成」されることになる。目論見どおりジェノサイドは遂行されていく。

しかし、ここで、ひとつの大きな疑問に直面する。そもそも産児制限とは、避妊をおこなうことであり、不妊手術という極端な方法まで含む人工避妊の徹底によって実践されるものである(後に世界を席巻する産児調節ピルの危険についてはここでは触れない)。「中絶による産児制限」などという発想は、当時は世界の誰も想像すらできないことだった。“産児制限の母”と称された、かのマーガレット・サンガーでさえも。 

「人口爆発」を唱える得体の知れないアメリカの専門家たちと日本のプロパガンダマスコミをつなぐ仕掛け人がいた。戦後初の女性議員となり、後には東京都名誉都民となった加藤シズエ衆議院議員である。優生保護法を立案した四人の国会議員の一人だが、加藤は戦前にアメリカ留学の経験があり、そこで女性運動の草分けであるマーガレット・サンガーと出会っている。 

サンガーに傾倒していた加藤は、その来日の手引きもしながら、サンガーを時の人に仕立てあげる。今で言えばマザー・テレサと同じくらいマーガレット・サンガーは日本で有名人となる(両者の言動が水と油ほど違っているとしても)。小学生たちは産児制限という言葉とセットで「サンガー女史」という名前も諳んじた。加藤の思惑どおり、日本はサンガーの思想を国の法律として実践する世界で最初の国となったのである。 

サンガーは有色人種の切捨てを本気で主張した人種差別主義者で、ナチスにも影響を与えたと言われるほどの過激な優生思想の持ち主だった。たしかにサンガーが家族計画の普及を目的に創設した団体Planned Parenthoodは、今日ではオバマ大統領が全面的に支援する全米最大手の中絶クリニックチェーンへと成長を遂げている。しかしサンガー自身が中絶をよしとすることは生涯なかった。中絶を産児制限の手段と認めることはなかったのである。

Planned Parenthoodが中絶事業に乗り出すのは、創設者の没後、1970年代以降のことだ。人を人とも思わない冷淡なレイシストではあっても、サンガーは中絶に関してはシロである。 

サンガー=産児制限=中絶=人口削減の達成

しかしながら当のサンガーも与り知らぬところで、日本で産児制限と中絶がつながれてしまう。でっちあげである。国民はだまされたのである。加藤シズエのPRの才能は、電通もひれ伏すほどだったかもしれないが、事実関係の検証もないままこれを喧伝したマスコミの責任は大きい。

日本は、戦後の混乱期のどさくさに乗じて、まんまと中絶を産児制限の方法として合法化するという離れ業をやってのけた。かつてソ連で女性を労働力として確保するために中絶を合法とする時代があったものの、スターリンの時代になると禁止される。第二次世界大戦終了時点において、主要国で中絶を合法としていた国はない。(つづく)


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