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「反・ベビー運動」の行き着くところ

note for life(4)

世界に先がけた中絶合法化。人道も産児制限の文脈も大きく逸脱した日本の狂気の沙汰のフライングは、人命と人権の尊重に向けて動き出した国際社会にとって驚天動地の出来事だった。日本に殺人を正当化する法律ができたと世界は驚きの声をあげた。一方、それもこれも敗戦直後の混乱期ゆえの過渡的な措置だろう、と大目に見られた節もあったようだ。

「この法律が成立した頃は、物質の欠乏と戦後の道徳の混乱期でございましたので、私どもは一時的な緊急避難として国会を通過したと理解しておりました」と当時を振り返るのは、日本医師会の”ドンとして長く会長の座に君臨した武見太郎である。医師会にアンタッチャブルな権力を集中させたドン武見の、優生保護法をめぐる証言は興味深い。一般的には医師会こそ最大の中絶支持勢力と見られているからである。

武見医師会は、優生学的見地にもとづく中絶の必要性は否定しなかったが、優生保護の名目とは無関係な「経済的理由」による中絶には終始反対の立場だったという。1970年代に優生保護法改正論議が盛んになったとき、カトリックや成長の家など宗教界が求めたのが、まさしくこの「経済的理由」の削除だった。その当時、宗教界と医師会は対立関係にあるかのようにみられていたが、実は主張は同じだったのである。

武見は会長職を退任した後に、こう述べている(日本教文社刊『胎児は人間でないのか』より)。

私は、日本医師会会長在任中の二十五年のうち二十年間というものは、優生保護法問題と関係をもっておりました。この間優生保護法問題についての私どもの主張は、一貫して第十四条一項四号にいう「経済的理由」は直ちに削除すべしということでございました。一方これに最も反対しておりました団体は、日本母性保護医協会でございました。と申しますのは、この団体は、そもそも産婦人科医である谷口弥三郎参議院議員の選挙母体として結成されたのでございますが、この団体の政策として打ち出され、議員提案で昭和二十三年に国会を通過したのが、優生保護法であるからでございます。

加藤シズエと並んで、優生保護法成立のために徒党を組んだ国会議員“四人組”の一人が、谷口弥三郎である。ここで武見は、谷口の選挙母体として安易な中絶を”利権”としてしまった日本母性保護医協会(現在の産婦人科医会)の姿勢を痛烈に批判しているのである。

さらには“四人組”のもう一人、衆議院の太田典礼も産婦人科医だった。太田は、”太田式リンク”の開発者である。これは、女性の膣内に埋め込まれ、受精卵の着床を妨げる”中絶器具”であり、戦前は販売が禁止されていた。晴れて中絶合法化を達成することで、太田はその販売利権に与ることになっただろう。合法化によって、”中絶の産業化”が一気にすすむ。

1949年以降、国の統計データをもってしても今日まで累計で9,000万件の中絶がおこなわれていることになる(実数はずっともっと多い)。もしこれだけの犠牲がなかったなら、当時の人口問題の専門家たちの予測どおり、日本は食糧難に陥ったのだろうか?人間以下の生活水準に甘んじることになったのだろうか?生活空間を求めて再び戦争に走ったのだろうか? ジンマーマン神父の回答を待つまでもなく、答えはノーである。

1948年の悲観的予測はことごとく外れてしまいました。もし、日本人が空腹であれば、それは食べるものが不足しているからでなく、ダイエットをしているからです。アメリカ人からの施しを受けて生きているのではなく、日本人は余剰工業生産物をアメリカに輸出しています。人口過剰の日本から日本人が外国に移民するのではなく、もうかる仕事を求めて日本に不法入国する外国人は後を絶ちません。(…)人口の専門家が、独善的な専門知識をもって予測したすべてのことは、はずれました。いわゆる専門家といわれる人たちが日本の実情について無知であったことは明らかです。

「アメリカに輸出」していたものといえば、中絶もそのひとつである。そして、ある意味、中絶にからむ「不法入国」もあったようである。アメリカが中絶を合法化するのは1973年だが、まだ中絶が違法だった60年代に、アメリカ人女性たちの間で日本への”中絶ツアー”がブームになっていたという。

「日本の外国系の病院には、中絶の問い合わせが後をたたない」と証言するのは写真家の剣持加津夫である。剣持は1960年代前半に、中絶される胎児を写真に収めながら中絶の恐ろしさ、虚しさを告発するフォトジャーナリストとして活躍した。”中絶ツアー”の実態も彼が現場で出くわしたスクープである。当時、アメリカではヤミ中絶の基本相場が千ドル(36万円)と言われていた。剣持の皮算用はブラックすぎて笑えない。

向こうのご婦人は、自国で払ったつもりで日本に飛行機で飛び、手術をしたあげくに真珠のネックレスぐらいはおみやげに買うことができる勘定であろう。(剣持加津夫『消えゆく胎児との対話』読売新聞社刊より)

ご婦人がたの“中絶天国”日本への“憧れ”が、自国での中絶合法化への情熱に拍車をかけたのではなかったか。中絶を担保に高度成長を遂げた日本に、ご婦人がたの亭主たちだって”憧れ”を抱いたかもしれない。アメリカは日本に追随した。ヨーロッパ各国もそれにつづいた。優生保護法は世界を変えた。歴史を動かした日本オリジナルの立法を他に知らない。

策士とメディアに踊らされ、人々が浮き足立つ中で世界史上に残る悪法を成立させてしまった戦後の日本の悲しい状況をつぶさに見届けてきたジンマーマン神父。人口減による国の破綻が間近に迫る今日のさらに輪をかけて悲しい状況が、元をたどれば1948年7月13日に遡ることに、ボタンの掛け違いはそこから始まっていることに忸怩たる思いを抱きつづけたことだろう。

1948年に反・ベビー運動が回し始めた世論の不器用なはずみ車は、今に至るまで回り続け、止まるところを知らぬ破壊行為を続けています。日本人の赤ちゃんに対する態度は頑固です。子供なんて要らない。何で結婚しなきゃいけないの。夫はもう一人子供が欲しいのに、医者は一人より二人の方がいいと勧めているのに、若い母親たちは第二子に、もう拒否反応を示します。

いまだにわたしたちは、ジンマーマン神父の言う1948年に始まった「反・ベビー運動」の影響下にある。この「はずみ車」の回転を止めない限り、この社会に未来はない。

日本は急速に国全体が老人ホームになりつつあります。これは若い世代にとっては、特に喜ばしいことではありません。人口学的年齢構造は、ちょうどエジプトのピラミッドをひっくり返したかのようになります。つまり、若い人たちの狭い底辺が、高年齢層の広い上辺に押しつぶされるような状態になります。かつて、産むはずの人数の子供を産まなかった親たちが、今、人数が少なすぎる若年層におんぶしてもらうことを期待するのは、公平であるといえません。

ジンマーマン神父が警鐘を鳴らした当時からもう二十年がたっている。状況はますます深刻になりこそすれ、好転する兆しはみえない。中絶という言葉を出すだけで、多くの大人たちは臑の古傷が疼くだろう。だが、その傷と向き合ってそれを乗り越えることを考えない限り、この社会に未来はない。

最後に武見太郎の言葉を借りる。

ところが、(戦後の動乱期に一時的な緊急避難として国会を通過したと理解していた)その法律が今日に至るまで放置されております。ここに今日優生保護法の問題が起こっておる最大の問題があると思うのであります。  

まったく同感である。「放置」は、そこからさらに三十年がたっている。戦後の動乱期の一時的な緊急避難はいつまでつづくのだろうか。緊急避難を余儀なくされる”被災者”はいつ解放されるのだろうか。合法のタテマエのもとにおこなわれる中絶という究極の搾取の苦しみから。(つづく)

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