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「主の日なしでは生きていけない」

ジョン・サフラネク

私の病院は、アメリカ国内の他のあらゆる病院と同じように、COVID-19のパンデミックのあいだ、運用上の新しい手順を採用することになった。私が働いている救急救命室では、外来患者はコロナウィルスに感染していないか第三者が見極めるまで建物の中に入ることさえできない。入念な更衣、マスクと手袋の着用がルーティンになるなど、たくさんの手順が変更となった。

他のどの診療科でも同じような措置がとられている。レントゲンを撮る際、機器の汚染を避けるために、X線技士は患者のいる部屋の外に立って窓越しに照射する。呼吸器系の療法士たちはウィルスを飛散させることを危惧して、通常の噴霧器の使用を中止している。どの部門でも、食堂でさえも運用の仕方をクリエイティブに変更している。このコロナ禍の中でも、われわれ医療従事者は働くことをやめない。われわれの仕事は人と社会の福利のために不可欠だからである。

こうした病院での変化とは対照的に、司教たちによる公開ミサ中止という事態がつづいている。多くの州政府が聖体拝領は不要不急という扱いにしてしまったが、それに反発した司教はほとんどいなかった。私の州(ネブラスカ)では8人から10人を超える集会が禁止となったものの、ただし「生活に不可欠」な業種は例外とされた。そこには裁判所(どうやら「遅ればせの正義など無きに等しい」と言ったシェイクスピアは正しかったようだ)、営業業務、飛行機の利用、そしてデイケアまで含まれる。私の霊的な生活は、私が存在するうえでもっとも必要不可欠であり、聖体拝領は私の信仰の源泉であり頂点である。それなのにデイケアよりも不可欠ではないものとされてしまったのだ。そして、そのことに異議申し立てをする司教はほとんどいなかったのだ。

病院では、それぞれの部門が創意工夫してこの新しい現実に適応するための対策をつくりあげた。その一方で、司教たちは型通りに公開ミサを禁止とした。主日のミサにあずかる義務の免除がミサに集まる会衆の数を著しく減らし、信者は教会と(コロナウィルス対策以前から)社会的距離をとるようになっていたにもかかわらず。そもそも、これまでも10人から15人くらいの参加がせいぜいだった平日のミサまでなぜ中止になるのか? なぜ地方の小教区まで都会の小教区と同じような措置をとらねばならないのか?(相互補完性の原則もたいがいにしてほしい)。

なかには、ドライブインミサを試みるとか、平日(あるいは主日)のミサ参加者をくじで10人選ぶようにするとか、毎回のミサ参加人数を減らすためにミサの回数を増やすとか、他にもカトリック共同墓地で野外ミサをおこなうなどの回避策を講じた司祭たちもいた。だが、たいていの試みは司教によって止められた。州政府の命令に対する異議申し立ての訴訟を起こそうなんて考えもしない。だが福音派はちがう。ブラジルでは勝訴し、アメリカでは地域によって判決が異なりはしたが、彼らは次々と訴訟を起こすに至った。新しい福音宣教の時代にあって、公に福音宣教を繰り広げているのはプロテスタントである。彼らは自分たちの祭儀が自分たちに不可欠なものであることを信じて疑わない。ところで、私たちの長上たちのこのたびの対応のなかに、若者たちに司祭召命を促すような胸を打つものが何かあっただろうか? デイケアがミサよりも不可欠なものであるという州政府の決定を教会の指導者たちが受け入れたとき、若者は自分の召命を疑わなかっただろうか?

ソビエトの強制労働収容所に収監されていたことのあるイエズス会司祭のウォルター・シジェック(Walter Ciszek)は、当時をこう振り返る。吹きさらしの貯蔵庫や泥まみれの土台工事の現場で、見つかれば激しい懲罰を受けることを覚悟のうえで、囚人たちのために毎日秘密のミサをあげていた、とシジェックは語る。囚人たちはつねに空腹に苛まれる状況でありながら、断食を捧げるためにわずかばかりの配給食を丸一日断つこともあったという。つまり、司祭にとっても信者にとっても、何より不可欠なことは聖体拝領だったのだ。

信者たちはなぜこうした行動をとるのだろうか? シジェックはこう答える。

いかにそれがわれわれの生きる糧となるか、愛と喜びの秘跡のうちに、われわれの霊的ないのちの食物としてキリストの御血と御体をいただくことがどれほどの意味をもつか。この経験はどこまでも現実的である。だれでも日常生活において、そのしるしを全身全霊で受け取ることができるのだ。なぜなら、毎日の糧が身体を保つために欠かせないように、霊魂のいのちを養うことがわれわれには不可欠だからである。彼らのために、生きる糧となるパンを届けるためなら、私は何処へでも行くし、どんな困難も厭わないし、どんな危険でも冒すだろう。

シジェックのことばは、聖体拝領は御父に願い出る日ごとのパンであると言った聖アウグスティヌスと響き合う。多くの信者にとって、そのパンは不可欠のものである。

いま、熱情と信仰を示すのは平信徒だ。なかにはネット上で署名活動を展開する者もいる。地方の一人の司祭からこんな話を聞いた。かつて彼の小教区にいた信者から司祭に電話があった。彼はいま、その小教区から300マイル離れたところに暮らしているのだが、その司祭がおこなっている主日の非公開ミサに家族7人を連れて参加してもいいかという問い合わせだったのだ。これを、教会の指導者たちの言動と比べてみるといい。シカゴ大司教のスーピッチ枢機卿は復活祭の3週間半も前に早々と復活の祭儀の中止を決めた。そのうえ彼は、この試練のときが終わるように、聖なる三日間という教会の一年でもっとも大事な日々を迎えることができるように、断食や毎日の祈りを求めることもなかったのだ。

もちろん私はコロナウィルスの危険性を理解している。病院に足を踏み入れるたびにこのウィルスの脅威に晒されている。そしてもちろん司教たちの公共善に対する責任感も理解できる。しかし私は、今回に限らず冬が来るたびに感染症が危険であることも知っている。インフルエンザで毎年3万人から5万人が亡くなっており、冬のあいだは毎日1万人の感染者が出る。にもかかわらず絶えず私たちは握手を交わし、パンとぶどう酒でミサをおこなってきたではないか。あきらかにインフルエンザ程度の罹患率と死亡率は許容範囲であったのに、コロナウィルスになったとたん、過剰な対策を余儀なくされることになったのだ。

コロナウィルスに対して司教たちが打ち出した解決策は、司祭のみの非公開ミサと誰にでも開かれたストリーミングミサ中継だ。しかしこれは、聖職権主義(全世界に聖性を呼びかけるという代物ではない)の増長と混乱を招くだけである。教会の指導者たちは、カトリックの兄弟姉妹たちとともに聖体拝領にあずかることとソファに座って気ままにミサ中継を視聴することとの違いを曖昧にしてしまった。この両者の違いをなるべく考えないようにすることはーすなわち多くの教会の指導者たちが技術的解決策の推進とともに取り組んできたことだがー主日のミサにあずかる義務感をますます弱めることになる。パンデミックが過ぎ去ったあと、どうして人々は教会のミサに戻ろうと思うだろうか?

全米が再開に向かって動き出す頃には、おそらく司教たちも聖体拝領にあずかることがスーパーマーケットに行くよりも危険が少ない方策を考え出すことだろう。いくつもの小さな変化を受け入れることによってリスクを最小化できるだろう。たとえば教会の扉や窓を開け放しにするとか(少なくとも零下ではない気温のときに)、ミサ典書や聖歌集の使用を控えるとか、体調のすぐれない信者や司祭は家にとどまることを奨励するとか、平和のあいさつは省略するとか、祭壇奉仕職、聖体奉仕職は休止するとか、聖体は手で拝領するとか(※)、2mは間隔をあけるようにするとか、さらには、おそらくミサが終わればただちに会衆は席から立ち去らなければならなくなるだろう。こうした措置がとられれば、ミサに行くことはスーパーで買い物をするよりも安全ということになるだろう。そしてもっと大事なことは、秘跡とはそれにあずかるためにそんな面倒な手順を踏まなければならないほど重要なものであるということをカトリック信徒たちに知らしめることである。

※訳注:アメリカ司教団が先月末に発表したミサ再開のためのガイドラインによれば、疫学的見地からも口で拝領することが手で拝領することよりもハイリスクであるということはできないとし、教皇庁の指針にあるとおり、これまでどおり口での拝領が妨げられることはないと明記されている。

司教たちには、聖エメリトゥスとアビシニアの殉教者たちを想い起こしてほしい。彼らは、古代ローマで権力者から禁止されていた聖体拝領をおこなったかどで捕らえられた。歴史の書物に記されているところでは、裁判官からなぜ聖体拝領という重大な罪をおかしたのかと問われたエメリトゥスは、雄々しくこう答えたのだ。

「われわれは、主の日なしでは生きていけない」

私たちの霊的な牧者たちが政府の疫学にではなく、エメリトゥスに導かれてくれることを願いたい。

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《 FIRST THINGSより訳出 》

ジョン・サフラネク医学博士(Dr. John Safranek, M.D., Ph.D)
COVID-19の被害が大きかったネブラスカ州コロンバスにある救急救命室の内科医。"The Myth of Liberalism: An Account of Freedom"の著者。




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