池田の生い立ち③~あの日の記憶を忘れないために~

年越し

年末となり学校も休みにはいる。
時間があれば、私たち家族は眠っている母のところにいくようにしていた。
けど私は母の病院に行きたいのだが、行きたくなかった。
病院に行き、母の顔をみて、耳元で「起きて、起きて」とささやくが、母が起きることはなかった。まだ助かるかもしれないというかすかな希望を信じたい気持ちと、母が死ぬかもしれないという絶望を直視したくないという気持ちが入り混じっていて、どちらかというと絶望の方が大きく、母のことはなるべく忘れていたかった。
バスケの練習をしているときだけは唯一忘れることができる時間だったのかもしれない。
この年の年末年始ほど、暗く、希望も何も感じない年はなかった。


あの日

母が意識がなくなって約2週間、年が明け、学校も再開した。
1時間目は数学のテストがあり、それを終えた休み時間
廊下で担任の先生が私を呼び出した。
「池田さん、ちょっときて」
妙な胸騒ぎがした。
「お母さんが病院で…… だから準備して」
先生は何やら難しい言葉を言っていたが、すべて聞き取れなくても察した
そうか…ダメだったか…
まだかすかにあった希望ももう無くなってしまった。覚悟はしていたからか
その時は涙は出てこなかった。
荷物をまとめて学校の一階で祖父がきてくれるとのことだったので待っていたら、担任主任の先生が僕の背中を押して
「気を強く持ってな」
と声をかけてくれた。
祖父の車が到着し、今度は弟の小学校に向かい、弟を拾う。
がんセンターに向かう車の中、約1時間ほどあるわけだが、私も弟も祖父も何も言葉を発しなかった。
私はただ膝の上に置いている自分の手の甲を見つめていた。
お母さんはもう本当に帰ってこないんだな
という現実をゆっくり受け入れようとしていたんだと思う。
この二週間、さんざん泣いてきたけど、やっぱりどこかで、これは夢で
母さんはきっと帰ってくると信じていた。
けどいい加減現実をみなければいけないときが来る。

がんセンターについて、私たちは母がいる階に向かう。
母がいる病室の前についてドアを開けた。
管につながって眠っている母の顔が見えた。
その瞬間、もう制御不能の大量の涙があふれ出てきて、私は母の横で崩れ落ちた。
ずっと目をそらし続けていた現実を見た瞬間だったからだと思う。

家族が揃ったことを確認し、お医者さんが人口で動かしている心臓の装置を止めた。よくドラマであるような脈打つ心拍計が水平になり0の数値を示し、お医者さんが死亡確認時刻を言った。

これが思いだしたくはないが忘れたくない記憶。
日に日に記憶が薄れていって、この日のこともいつか忘れてしまうのではないかと思い今回はここに残しておくことにした。
母が生きていれば、とかIFの世界を考えることはあるが、この出来事自体も今の私を形成している大きな一つの要因になっている。この出来事をどうとらえどのように未来につなげていくのかが生きている私たちがすること。

ちょうど母が亡くなって3か月後に東日本大震災が起こる。震災で被災した人は、私たちよりももっとひどい状況だったに違いない。
有名な言葉に「幸せだから笑うのではない。笑うから幸せなのだ。」という言葉がある。この「笑う」という行為は私たち人間がこの不条理な世界で前を向いて生きていくために身に着けた能力なのだと思う。どんな出来事も重く受け止めすぎず笑いながら前を向いて生きていくしかない。
笑っていこう!

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