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【インタビュー】流されて、たどり着いた先に見えたもの ~ある長崎の被爆者の物語~①

古瀬一枝さん 1925年(大正14年)生まれ

2年前に長崎から横浜のサービス付き高齢者向け住宅に移住した古瀬さんは、戦争中に長崎で被爆して、家族全員を亡くすという絶望を味わった。しかし、時代に翻弄されながらも、前向きに明るく人生を生き抜いてきた。被爆者健康手帳を持っているが、全く症状を発症しないまま今日まで元気に過ごしている。
被爆者の高齢化に伴って被爆体験が風化している中で、大正・昭和・平成・令和の4つの時代にまたがる古瀬さんの人生の記録を多くの人と分かち合いたい。

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NHK朝の連続テレビ小説『なつぞら』

古瀬さんは微笑みをたたえて、約束の場所である「おひさまカフェ」に現れた。おひさまカフェは、サービス付き高齢者向け住宅の建物内にある食堂で、入居者だけでなく地域の人々にも開放していて、世代を超えた交流の場となっている。
古瀬さんは小柄な体にジャケットを羽織り、どことなく上品さを醸し出していた。話を始めると、93歳とは思えないほどはつらつとしていて、耳も遠くなく、滑舌もよく、記憶もはっきりとしていた。
戦争で被爆した話を聞きたいと伝えると、「あまり思い出したくないんです」と言い、4月にスタートしたばかりのNHK朝の連続テレビ小説『なつぞら』のことに触れた。主人公が、自分と同じ戦災孤児のため、身につまされるという。古瀬さんが戦災孤児になったのが20歳の時。
「親と別れるのは一番つらいことだけど、私は20歳まで一緒にいられたんだからよかったと思わないとね」
と古瀬さん。主人公のなつたちはもっと小さいからかわいそうに思うようで、しかも自分には母親の里があって、そこが百姓だったから食べ物には困らなかったし、祖父母にとても可愛がってもらったから有難かったと言った。それでも、やはり本当の親とは違うし、自分は外孫だから気を遣ったと寂しそうな表情をした。

被爆する前(三菱重工業長崎造船所に勤務後、教員採用試験に合格)

1942年(昭和17年)3月に女学校を卒業した古瀬さんは、三菱重工業長崎造船所に集団就職した。一年間勤めたが、娘が残業で遅く帰るのを心配した父親が、新聞で「長崎に師範学校ができた」という記事を見つけて、古瀬さんに教員採用試験を受けるように言った。せっかく一年間勤めて慣れてきた職場だったため、納得がいかずにふくれていると、母親が「あなたが採用試験に落ちたらお父さんも黙っとる」と言うので仕方なく受けた。あまり気が進まなかったのに、受かったら嬉しくて、やはり父の言うことを聞いておいてよかったと思った。
半年間、師範学校に通った後、17歳で教員になった古瀬さんは、勝山国民学校に勤務することになった。長崎で一番大きな学校で、一学年5クラスあった。男子ばかり60人。古瀬さんが担当したのは10歳くらいの子で自分と10も違わない。
クラスが多かったため、週に一回放課後に授業の進度を合わせた。学年主任の先生が、授業をする上での注意点を新米教師たちに教えた。
大半の男性教師は戦争に行ってしまったが、残った男性教師は、学徒動員で男子生徒たちを工場に連れて行った。男子生徒たちは月謝を払っていたが勉強をさせてもらえず、労働力不足を補うために工場に働きに行かされた。

被爆(淵国民学校に勤務)

20歳の古瀬さんは、1945年(昭和20年)6月に勝山国民学校から淵国民学校に異動になった。高等科だけの学校だった。古瀬さんは初等科の免許を取ったのに、どういうわけか高等科に配属になった。6月15日に異動、8月9日に原爆が投下されたため、同僚の先生の名前もろくに覚えていなく、担任ではなかったため生徒のことも覚えていない状態だった。
8月9日11時2分、『同僚の先生たちと職員室から図書室へ本を運ぶ作業中、鉄筋コンクリート建て校舎の2階の廊下を歩いていると、飛行機の音が聞こえた。思わず伏せた瞬間、ピカッと光が走り背中に熱さを感じた。その直後、ガーンと耳を裂くような音がし「この世の終わりか」と思うほど、あたりは薄暗くなった。逃げようと思っても腰が抜け、立つこともできない。ガラスが飛び散った廊下や階段を必死ではいながら駆け下りた。ガラスの破片が刺さった足のすねのことなど全く気付かないほど必死だった。玄関を出ると、髪を振り乱し顔や体から血を流した人たちが助けを求めて叫んでいた。』(注A)
淵国民学校は爆心地から約1キロの学校で、木造部分にいた職員の半分は亡くなったが、古瀬さんはたまたま鉄筋コンクリートの廊下にいたため難を逃れた。
校舎が燃えてしまったため、学校の谷間の野原で先生たちと集まって野宿をした。夏なのに、ガタガタ震えるくらい寒かった。野原にはけがをして逃げてきた人たちでいっぱいだった。
『三十、四十歳の男性が子供の手を引きながら「もう一度、お母さんに会いにいこうか」と言っている姿を見てとてもいたたまれない気持ちになった。』(注A)
女の先生はほとんど独身の若い先生ばかりで、それぞれの父親が迎えに来て、けがをした人はリヤカーで帰って行った。私も、『帰りが遅くなるといつもしかっていた厳しい父だから、必ず迎えに来てくれるはずと期待を抱いて待っていた。』(注A)
翌朝、男の先生に「城山方面に行くから一緒においで」と言われて3人の先生に付いて行った。
『自宅へ向かう途中、目に入ったものは焼け野原となった町、焼けた遺体で埋め尽くされた浦上川だった。惨状を目の当たりにし機銃掃射の中、城山町の自宅へ急いだ。』(注A)
自宅があるはずの場所に行ったら、焼け野原で何もなかった。家は跡形もなく、周りを囲っていた側溝の存在だけが分かるくらいだった。ただ呆然とした。自宅の敷地内で母、弟2人、妹らしき遺体を見つけた。3人の先生たちが「あんたは向こうを向いときなさい」と言って、焼け残っていた柱を遺体の上にのせた。そして、「火を付けなさい」と言われて、自らの手で火を付けてだびに付した。火葬場も焼けてしまったから、皆そうやって自分で身内の遺体を焼いたのだ。1つの骨壺に家族の遺骨全ては入りきらないため、大事な骨だけを入れた。他の家族の生死は確認することができなかった。
爆心地からだいぶ離れた諏訪神社に自宅がある先生が、自宅を本部のようにしてくれて、家も親もない古瀬さんは終戦になるまでそこでお世話になった。終戦の少し前、知人が母の里の島原から私を探しに来た。自宅の焼け跡に立てておいた立て札を見て、私の居場所を知り、迎えに来てくれたのだ。
母の里に帰り、祖母の顔を見て、それまで張りつめていたものが切れて初めて泣いた。
「やっぱり安心せんと人は泣けん」と古瀬さんはぽつりとつぶやいた。

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祖父母の家での暮らし

祖父母の家は本家だったため、ひところ15人くらいの人がいた。
親がいたときには、朝、何度起こされても起きられなかったが、祖父母の家では、馬がヒヒーンと鳴いたらすぐに目が覚めた。気が張っていたのだろう。
みんなが親切にしてくれるからふくれ面をしているわけにもいかなくて、「ありがとう、ありがとう」とニコニコしていた。しかし、無理をしているからくたびれてしまう。ふと寂しくなると、海を見ながら「あの海に浮かんだら気持ちよかろうね」と思ったりして、弱くなる自分がいた。
『なつぞら』の中でも、お世話になっていた家のおじいさんがなつに向かって「お前なら大丈夫だ。無理して笑うことはない。謝ることもない。お前はここで堂々と生きろ」と言っていた。当時の自分に言われているようだった。
「今は一人で、泣こうが笑おうが誰にも気兼ねなしで、一番安らぎますね。気を遣わんでいいでしょ。有難いと思いますね」
と言った。
兄弟は6人いた。古瀬さんは2番目で、上に兄がいた。終戦の時は、兄が戦争から帰ってきたときに困らないようにと思って家督相続の手続きをしたり、火災保険で降りたお金を兄の通帳を作って入れた。ところが、兄は親よりも先に死んでいた。戦死の公報が届くのが遅くて、一年後に知ったのだ。兄が生きていると思っていたから頑張ることができただけに、知らせが届いたときはがっくりして何のために生きているんだろうと思った。被爆しながら紙一重で助けられた命だったが、一人残されたことを知った時は悪運だと嘆かずにはいられなかった。
ただ、親は我が子(兄)が死んだのを知らずに亡くなったから、それは良かったのかもしれない。

許嫁との結婚

GHQの指揮のもと、日本政府によって農地改革が行われた。これにより、地主不在の土地を政府が強制的に安値で買い上げ、実際に耕作していた小作人に売り渡された。
布津というところに親の田畑があったため、養子をもらって百姓をしようかと思って覚悟をしていたが、農地改革によって田畑がなくなってしまったことで諦めた。
そうこうするうちに、古瀬さんに許嫁がいたことが発覚する。母と母の兄が、将来はお互いの子ども同士を結婚させようと約束していたのだ。
しかし、古瀬さんは、跡取りがいなくなった今、自分が養子をもらわないといけないと思っていた。
すると、祖父が「財産のある人が養子ばもらう。財産がないんだから養子は考えなくていい」と言った。姑も先進的な人で、「新憲法で結婚したら、新しい戸籍を作るから嫁入りとは違う」と言うので、それもそうかと結婚を決めた。苗字は変わったが、本籍は古瀬さんの生まれた土地にした。ある意味、夫は養子に来てくれたようなものだと思う。
結婚したのは夫が25歳、古瀬さんが23歳の時だった。夫は中国の上海から引き揚げてきてから、長崎の銀行に勤めていた。銀行の支店長が2人をかわいそうに思って、銀行の宿直室を新居として使わせてくれた。古瀬さんは結婚後も教師の仕事を続けた。

②へつづく

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