大学時代2

少し、バスケットボール部からは離れます。私の大学生活は、母校のバスケットボール部の同級生や後輩達と共に過ごす時間と、大学の研究室のメンバーと過ごす時間とが同じくらいだったでしょうか。平日は、毎日大学には通っていました。教養のころは、授業を選ぶことができ、殆ど午前中の授業を選択し、どうしても午後でないと受けられない授業も同じ曜日に集約し、週に4日は、母校のバスケットボール部に行きました。週末は100%母校です。

3回生になり学部生になると、ゼミや実験が増えてきます。この頃になると、授業を軽視する訳にはいきません。ゼミは出席必須ですし、欠席するとハイレベルの内容についていけなくなってしまいます。また、卒業論文の課題は学部生になってから半年くらいで決めることになります。それまでに、自分の研究室で取り組む様々な研究、分けても先輩方の卒業研究から、研究室として継続的に取り組むべき重要な研究を吟味して自分の卒業研究を決めるのです。時には、国から依頼されて行う研究を指導教官と共に卒業課題として取り組む学友もいます。そんな状況なので、平日はそうそう母校に行ってはいられません。それでも、なんとかやり繰りして、週2日と週末は母校に出かけて行くのです。それも、1時間半もかけてです。

同じ研究室には、大阪随一の進学校からの同級生がいました。彼の他に三重県と秋田県から進学してきた同級生と私の4人が新たに加わりました。そこに、4回生が2人の6人の学生が在籍することになりました。学部生が300人、10学科あり各学科30人、6研究室があったので各学年平均5名なので、我々の研究室はやや少人数ということになります。私の大学では少数派の女学生2人が我々の研究室を希望しましたが、最終的に他の研究室に行くことになりました。我々の研究室よりも研究の範囲が広く選択肢が多い研究室がいくつかあり、そこでは、多くの学生を受け入れて研究を重ねる必要があったのです。

同じ研究室の大阪進学校からの同級生には、他の学部や、大阪や奈良の医大や医学部に在籍する友人が大勢いました。彼らは、高校時代の仲間でよく旅行に行っていました。あるとき、九州を旅行しているときに知り合った少し年上の人に出会ったのをきっかけに、ラグビーを始めることになったのです。その動機は、我々の世代の学生には陶酔する者が多かった野坂昭如の大のファンで、彼に近づくには、ラグビーをするのが一番近道だという不純なものだったのです。(ある意味純粋だったのかもしれません)野坂昭如は、早稲田大学OBのラグビーチーム「アドリブクラブ」に在籍しており、練習にも積極的に参加していたのです。そこで、それぞれが、運動の出来そうな友人をスカウトして、ラグビーチームを作ろうということになったのだそうです。教養のころのスポーツ大会のバレーボールや、バスケットボール、授業の合間に皆で戯れたバドミントンなどを見ていて、友人は真っ先に私に声をかけたのでした。私の母校は、実は、ラグビーの名門校で、旧制中学時代は全国優勝したこともあり、私が2年生のときには、3年生バックスと2年生フォワードで大阪大会優勝しインターハイや国体に出場するなど実績がありました。冬の体育の授業はラグビーと柔道が中心で、クラス対抗のレベルでも地区大会の1回戦、2回戦くらいなら勝てるといわれたくらいです。中でもバスケットボール部のメンバーの何人かは、先輩が抜けて手薄になったバックス要因としてラグビー部にスカウトされたくらいでした。私もその中のひとりでした。そんな私です。断る理由がありません。他にも誰かいないかということで、バスケットボール部同級生で格闘技も大好きな168cmの彼と、後輩で足の早い一人に声をかけ、一緒にラグビーをすることになったのです。大学の同級生の卒業した大阪随一の進学校もラグビーの名門校の一つで、元大阪府知事橋下弁護士もその高校の卒業生で花園で大活躍したほどの名門高校だったのです。大学の同級生とその友人達はどちらかというと運動には縁のない人達でしたが、それぞれが、連れてきたメンバーがかなりのものでした。週1日日曜日の夕方、大阪城公園のグランドで練習する生活が始まったのです。夏休みには、旅先で知り合った少し年上の皆が兄貴と呼んでいた人が声をかけて、数名づつ、3回ほど東京に出向き、東大駒場グランドでのアドリブクラブの練習に参加させてもらうなんてこともやりました。練習後には、近くの銭湯に皆で行き、湯上がりには2階の宴会場でビールを飲み歓談するのです。50人もいたでしょうか。そんなことを繰り返し、ついに、アドリブクラブとの試合が実現することになったのです。12月14日討ち入りの日でした。リコーのグランドを借り、アドリブクラブのAチームは、リコーの2軍と試合をし、我々の相手は野坂昭如がスタンドオフを務めるBチームでした。相手も早稲田大学や青山学院大学など東京の名だたる大学のラグビー出身者が沢山います。ただ、年齢が少し上だったこともあり、我々は、若さと怖いもの知らずで、何と12-0で勝利したのです。今思えば、試合終盤、ゴールライン間近まで攻め込まれた我々は、何度かオフサイドやノットリリースザボールなどの反則を犯しました。ペナルティーゴールのチャンスが相手には何度もあったのですが、最後までトライを狙って勝負してきたのです。そこには魂のぶつかり合いがあったように思います。ラグビーでは試合終了するとノーサイドです。敵も味方もなく同じラグビーを愛する仲間ということです。試合後、席を交え打ち上げを行ったことは言うまでもありません。

野坂昭如に会うためにできたラグビーチームでしたが、その後も活動は続き、私は、大学を卒業し就職するまで活動しました。他のメンバーも同様です。皆社会人になり、それぞれの道を歩むことになります。流石にラグビーチームは存続することはありませんでしたが、今でも個別には交流があり、大阪にいるメンバーは不定期に集まったりしています。大学時代の懐かしい思い出です。




















































この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?