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初めての海外旅行の香港でジャケット買いしたCDアルバムのあの歌手は誰だったのかを二二年後に調べるの巻 #4

三日目 ダイヤモンド・ヒルへ直行

遅く起きる
すぐ目の前の駅からダイヤモンドヒルへ
住宅ビル地帯をかいくぐって
モールへ 住宅うろうろ

 この日はまる一日が自由行動だったはずである。
 のっけから「ダイヤモンドヒル」なる場所へ向かっている。
 どこだろう?
 記憶がないので、これもまたグーグルマップに打ち込んでみる。すると、あった。
 ダイヤモンド・ヒルなる地下鉄の駅が半島側の北東にあるのだ。漢字で書くと鑽石山。
 確かに、商業地から離れたところにある高層住宅に潜入した記憶がある。
 あの細長い建物にどのように人が住んでいるのかを知りたいと思ったのだ。
 建物の入口はオートロック式になっているから、鍵がないと中に入ることができない。そこで誰か住人が通るのをしばらく待って、ドアが開いたところをスッと入ったような気がする。
 しかし中に入ったからといって何があるわけでもない。エレベータで上がって適当な階で降り、廊下を少し歩いて、網戸のかかった各部屋の細長い入口に、反転した「福」の文字を使った装飾がされているのなどを見て帰って来ただけと思われる。けれど、香港に住む一般住民の生活に近づけたような気がして満足した。
 しかしなぜダイヤモンド・ヒルだったのだろう。しかもホテルから直行している。
 この謎も判明した。
 旅のきっかけに邱永漢があると書いたが、その小説『香港』の主人公が、台湾を逃れて香港にやって来て、知人を頼って最初に訪れた地がダイヤモンド・ヒルだったのだ。少し引用してみよう。

ところが実際に香港に着いてみて驚いた。手帳にしたためておいた住所を頼りに、満州人の苦力(クーリー)に案内されて行ったところは、大邸宅街どころか飛行場のすぐ裏手の小高い丘の上にある貧民窟だったのである。……
 鑽石山。英語でダイヤモンド・ヒルという燦然(さんぜん)たる名前で呼ばれる土地がこんな所だろうか。香港に覇を競う一流の富豪が住んでいるはずの住宅区がこんな所にあるだろうか。否、否、きっと苦力は土地に不案内な奴なのだ。そう思いながら、彼は苦力の後を追った。

 二〇〇〇年の鑽石山は貧民窟ではなかった。かといって燦然と輝くような土地でもなかったけれど。

やがて商店街に出る
思い切って粥を食う 筆談
出てきたのはモツ? 当たらないか心配
粥はうまい 揚げパンも成功
気分よくなる $一一

 今度の筆談メシは失敗で、レンゲで掬って、とろとろの米粒の下から姿を現したのは、いかにも内臓ですといった感じの、押せば返すような張りのある大きなモツだった。メニューの漢字と合わせて推測するに、おそらく豚のレバーだったのではないか。あたると嫌だなと思いながらも完食した。しかし、選んだ具材こそハズレだったけれど、黄味がかってしっかりと味のついた粥はそれ自体として旨く、油條(ヤウティウ)なる揚げパンと組み合わせるという発想にもいたく感心した。

パンを買う チャーシューもの二つ タルト一つ うまい
ダイヤモンドから上環へ
トラムに乗る
ワンチャイからコーズウェイ寄りで降りる 一二時付近
球場わかる
コーズウェイ、そごう、センターうろうろ
チャーシュー飯食う
ワンチャイへ戻って、ジュース買い
肉まん買い 何とレンジ でもうまい!!
公園で食う
ショウケイワンへ
市、魚、肉、踊る
コーズウェイ
本買って おでんみたいなの×二
コーズウェイーチムサーチョイ

 ダイヤモンド・ヒルからは地下鉄で香港島に渡って、上環(ションワン)→銅鑼灣(コーズウェイ・ベイ)→灣仔(ワンチャイ)→筲箕灣(ショウケイワン)→銅鑼灣(コーズウェイ・ベイ)→尖沙咀(チムサーチョイ)と移動している。
「球場わかる」とあるが、これもおそらく小説に出てきた場所なのだろうな。
 メモでは「ショウケイワンへ」とあるが、その字面の面白さに惹かれて鰂魚涌(クオーリー・ベイ)なる駅で路面電車を降りたような気がする。
「市、魚、肉、踊る」と書いているが、これは駅近くに食材の市があり、桶に入れた食用ガエルを販売しているのを見たからだったと記憶する。
 香港で何の本を買ったかは不明だが(英書か?)、屋台でおでん風のもの(カレー味だった)を立ち食いしてホテルに戻っている。
 最後の夜である。
 元気なことに、それからまた街へ出て、

出直し うろうろ おでん×1
電話し、スーパー
男人街―CD×二→バス→CD→ホテル

 公衆電話から陳さんに電話を入れ、確定した明日の集合時間を聞き出し、油麻地(ヤウマアテイ)駅近くの男人街まで足を延ばしている。
「CD×二」とあり、また購入しているが、これはいわゆるコピー商品だったと思われる。宇多田ヒカルと安室奈美恵(時代だね)の日本では見たことのないパッケージのものを買ったのだが、帰国して聞いてみると音質が悪かった。(値段も異様に安かった。)
 最後は二階建てバスの上階に座って、彌敦道(ネイザン・ロード)の左右の建物から張り出した禍々しいネオンの下をくぐってホテルそばまで戻り、旅の締めくくりとした。

 三日目のメモの内容から察するに、どうやら旅程は三泊四日だったらしい。
 ところが四日目の記録はまったく残されていない。
 覚えているのは、日本に戻った翌日に寝過ごして、アルバイトに遅刻したことだけだ。目覚まし時計を止めた記憶すらない。それほどまでに熟睡した。初めての海外体験の刺激が強すぎて、心と体の芯まで疲れきっていたのだ。
 以来、海外旅行から戻る日の翌日は休日にする、ないしは翌日が休めない場合は午前中に帰国する、というスケジュールを組む私の習慣はここから始まった。

 振り返って見れば、自分にとって初めての海外旅行となったこの旅は、パッケージツアーに一人で申し込むなどの今の自分なら絶対にしないだろうということが含まれている一方で、これを手始めに国内・海外を問わず好んで旅行することになる自分の〝旅のスタイル〟(映画や小説に登場する何の変哲もない土地を訪れるなど)の片鱗がすでに現れていたということも、今回、埋もれた記録を掘り起こしてみての新たな発見であった。
「処女作にはその作家のすべてがある」と言うが、「処女旅にはその旅人のすべてがある」とも言えそうである。

(次回に続く)

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