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初めての海外旅行の香港でジャケット買いしたCDアルバムのあの歌手は誰だったのかを二二年後に調べるの巻 #2

初日「一生の中で一番濃い一日」

 残念ながら正確な日付は記録されていない。
 それが二〇〇〇年の二月だったことは記憶している。
 メモは、ページの欄外に書き込まれた次の一行から始まっている。

一生の中で一番濃い一日

 何と大げさな、と恥ずかしくなるが、当時の私にとってはそれほどインパクトのある体験だったのである。
 その一日は次のようにして始まった。

寝付けず 二時から二時間だけ寝る
朝起き 三時五〇分 準備 メール 出発四時二〇分
走る 間に合わず
四時四三分~ 東京―箱崎 心地よい
成田
うろうろ 戸惑う
ドトール五〇〇円

<明日の同時刻には自分はこの布団で寝ていない。>
 今でも旅行に行く前の晩にはふとそう思うことがあるが、このときは初めての海外である。その念にとりつかれて緊張か興奮かしていたに違いない。
 その結果の睡眠不足。
 これから海外に行くには良くない滑り出しである。
 そのせいか、目的の電車を逃したようである。
「東京―箱崎」とあるから、おそらく地下鉄に乗って水天宮前まで行き、箱崎からバスで成田空港へ向かったのだろう。
 高速バスで行ったなら「心地よい」はずだ。
 私は当時、東京二三区内に住んでいた。
 朝の四時に出発して、いったい何時の飛行機に乗るつもりだったのだろう? という疑問の答えは次の一行にあった。

九時一〇分 搭乗

 もしかしたら七時前には成田に着いていたのではなかろうか。
 ずいぶんと用心したものだ。
「ドトール五〇〇円」とはリッチな朝食だが、その時刻に着いたなら店に入って時間を潰したくもなるだろう。
 メモの続きを読むと、どうやら無事に手続を済ませて搭乗したようである。

いきなりパスポートを遠ざける
外国人のアラブ系のスチュワーデスにためらう
アップルジュースとつまみ
→オレンジジュースと機内食
→アイス&コーヒー
歌きき
緊張 到着 トイレへ$なし ホッとする
imigration 重々しく冷たく

「いきなりパスポートを遠ざける」というのは、パスポートをスーツケースの中に入れ、頭上の手荷物入れにしまい込んでしまったことを指している。パスポートを肌身から離してしまったことを不安に思ったということだ。(こういうことは覚えているのだな。)
 航空会社はキャセイ・パシフィックだったと記憶する。
 今調べてみると香港までの所要時間は五時間弱。
 それほど長時間というわけではないのに、おやつから機内食からデザートまで、ひっきりなしに食事を提供されることに驚いたのだろう。
 到着地は新しくできた香港国際空港だった(調べると開港は二年前の一九九八年だったと言うではないか)。
 飛行機が着陸するときには緊張した。
 もちろん安全性に不安があったのではなく、初めて異国の地に降り立つということに体が反応したのだ。
 タイヤが接地し、隣の客の窓越しに滑走路の様子を見つめていた。流れる景色の中に、それまで見たことのない型の大きな消防車の姿が目に入ったとき、異国に来た、と実感した。
「トイレへ$なし ホッとする」というのは意味が判然としないが、おそらく現地ではトイレで使用料を取られる場合があるとの情報を事前に仕入れていたのではないか。まだ香港ドルの小銭の手持ちが無いところ、無料だったので助かった、というように読める。

 空港では旅行会社が手配したガイドが出迎えに来ているはずであった。

いきなり現地人 日本語不完全で大丈夫かよ
いきなり予定変更
一人でホテル デポジットの意味が分からず少々揉める(カオルーンホテル
風呂に入る べとべと 蒸し暑い
とにかくボロイのにやたらに高い 細長い
第一声「異国に来たぜ」 見慣れない大型の消防車
漢字が読めない
怖いと思った
まさに人種のるつぼ
何人でもいる
猥雑
一六〇〇~一七〇〇風呂
一七〇〇~歩き

 ガイドはすぐに見つかった。中年の小柄な女性で、陳さんと言ったかと記憶する。
「いきなり現地人 日本語不完全で大丈夫かよ」というのは、その陳さんのしゃべる日本語が片言だったため不安になったということだ。
 このツアーでは最終日まで、この陳さんが案内してくれることになるのだが、もちろん何の問題もなかった。何も難しい議論をするために来たわけではなく、お気楽な観光旅行である。正確で流暢な日本語は必ずしも必要ではない。
「いきなり予定変更」の内容は思い出せないが、同じ便で来たらしい他の日本人観光客と一緒に、小型のバスかワゴンに乗ってホテルへと向かったと記憶する。
 自分の宿はカオルーン・ホテルである。漢字で書くと九龍酒店。
 有名なペニンシュラ・ホテルの裏に建つ。
 ずいぶんと立派なホテルを予約したものだ。
 初めての海外旅行だから警戒していたのだろう。「スタンダード」ではなく「スーペリア」のクラスの中から選んだような気がする。
「デポジットの意味が分からず少々揉める」とある。
 これはチェックインするときに、デポジットとやらが必要だと言われ、クレジットカードにするか現金にするかを問われたことを指す。当時の私はデポジットの意味が分からず、いきなり騙されてはいけないと警戒して、フロントまで付いて来てくれた男の運転手だったかにしきりと確認を求めたような気がする。そして結局、クレジットカードではなく、日本円だったか香港ドルだったか忘れたが、現金をデポジットとして預けることにしたのだ。(今ならクレジットカードをサッと提示していたことだろう。このクラスのホテルなら何の心配も無かったはずだ。もちろん預けた現金はチェックアウト時にちゃんと戻ってきた。)
 部屋に入ると早速シャワーを浴びている。
「べとべと 蒸し暑い」とあるが、二月である。日本からは厚手のコートを着て来ている。陳さんから、香港では一年中冷房を強めに効かしているのだと車の中で聞いた。
「とにかくボロイのにやたらに高い 細長い」というのは、ホテルまでの道中に見た香港の住宅のことを言っている。狭い土地の中に多くの人口を抱える街だ。一軒家のような贅沢な土地の使い方は許されないのである。針山に突き刺した待ち針のようにアパートが林立している。そのことに強い印象を受けたようだ。
「漢字が読めない」「怖いと思った」「まさに人種のるつぼ」「何人(なにじん)でもいる」――車からホテルまでちょっと歩いただけですでに圧倒されているのだ。

 汗を流してさっぱりした後は、さっそく街歩きに出かけた。
 最初は何となく海を目指して南下して歩いて行ったのではないかと思われるが定かではない。
 軽食屋に入った。

あげまんじゅう 炸マントウ 練乳にびっくり
上海ワンタン
さぞかし変な取り合わせだったろう $四三
チップは払わなくてもよかったのか

 メニューを見ても、やたらと画数の多い見慣れない漢字が横一列に並んでいるだけで、何のイメージも湧いてこない。
 それでもガイドブックで仕入れた現地の料理の命名法に関する知識を頼りに発注する。
 出てきたのは、四角い揚げパンのようなものとワンタンスープだった。揚げパンには練乳の小皿が付いてきて、それに驚いている(調べてみたらこれは炸饅頭(ヂャーマントウ)なる料理だね)。
 おやつなのか夕食なのかよく分からないような食事になった。
 当時は一香港ドルが一三円ほどだったようだから、合わせて五〇〇~六〇〇円といったところか。
 会計時に男の店員が勢いよく発した「四三」(セイ・サップ・サーム)の広東語が聞き取れて嬉しく思ったことを記憶している。

ウィキペディア「饅頭 (中国)」より転載

優の良品
つまみ食いすぎて、買わずに出られない $三五

「優の良品」という菓子を売るチェーン店があったのだ。
 街に溢れているのは漢字ばかりのところ、店名に大きな平仮名が混じっているのだから日本人の目の中に嫌でも飛び込んで来る。(この店名はどうやら「無印良品」のモジりだったようだ。調べると新型コロナの影響で二〇二二年にすべて閉店してしまったとのこと。)
 いろいろと試食させてもらって、結局ミカンの皮を干して砂糖にまぶしたような菓子などを購入した気がする。黒く焙ったスイカの種が食用になることを知ったのもこの店だったと思う。

うまくない麺 $一〇
CD サングラス
ヤシの実ジュース うまい 小啦(シウラ) $七

 うまくない麺を食べたのかあ。まったく記憶に無い。
 次の「CD サングラス」で、問題のアルバムを購入している。(サングラスの方は使い物にならなかったのだろうな。記憶に無い。)
 初日に早くも買っていたのだ。これについては後で深掘りする。

とにかくこの匂い
いい匂いのようなくさいような エナジェティックな匂い

 香港の街に対する私の一番の印象は、街全体が香っている、ということであった。だから香る港で香港なのか? おそらく屋台その他から発する食べ物の匂いに街全体が包まれているためと思うのだが、自分の周囲にはなぜか賛同者がいない。(香港経験者の皆さん、いかがですか?)
 私は香港を、漢文の授業で習った「鼓腹撃壌」の地だと思った。

道を尋ねられる
ベイからの夜景
人を見る

 道を訊かれて、見てくれだけは同じアジア人なのだと気づく。もちろん答えられるはずもない。

つまりアメ横、歌舞伎町、渋谷 これが延々続いている
歩きに慣れない人が来るところではない

 ホテルの周辺を歩いてみて、これは日本で言えばアメ横や歌舞伎町や渋谷のような所だなと思った。自分には繁華街を遊び歩く習慣が無く、東京に住んでいてアメ横や歌舞伎町や渋谷に行かないのに、外国でそれに似た街をぶらつくなんておかしいでしょ、と思ったというわけだ。

一人は心細い
コトバが通じないことがいかに人を不安に陥れるか
この猥雑さに耐えられないと思った 嫌だと思った

 と初日にして早くも弱気な感想を漏らしている。

ベッドにツインを合体させて
一時ごろ寝て、六時に起きる

 なるほど「一生の中で一番濃い一日」だったわけだ。

(次回に続く)

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