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映画「Pearl パール」絶望の終わりの始まり

「いかにしてパールというシリアルキラーが誕生したか?」

前作「Xエックス」の前日譚(とはいえ遡ること60年前のお話)という位置づけであるがゆえ、どうしても「正常だったパール」が何らかの原因で「異常」に変容したその答えを探したくなる。

しかし、丁寧に「その答え」を描けばそれだけで映画一本分のボリュームが必要だろう。なので、この家庭環境の描かれ方の淡白さは「熟慮された上での構成」なのだろうなと途中から軌道修正をして鑑賞を続けた。

けれどもそんな物足りなさもミア・ゴスの熱演が見事に功を奏し、親の愛が足りなくて、自己肯定感が低いのに化け物じみた承認欲求と自信と妄想癖を持つパールの生まれ持っての「歪さ」がこれでもかと伝わってきた。

「家」という閉鎖的な空間の中だけで通用する「正しさ」を押し付けられて育ったパールには外の世界とのコミュニケーション能力が備わっておらず、相手がキャッチボールのつもりで投げたボールを時速100マイルで投げ返してしまう。そして受け取れなかった相手を責める。自分が悪いとはこれっぱかりも思っちゃいないのだ。

常に自信がなくオドオドした様子からスイッチが入った途端フルブーストする感情の振幅は否応なしに見てるこちらの感情を振り回し、その瞬間に感じた疲労感は尋常ではなかった。パールは感情の変化にグラデーションがないから恐怖を感じるのだ。パールの感情の揺らぎは、まるで0か1かのデジタルのような極端さなのだ。

だがこの作品は、そうしたパールの気の毒な妄想と殺戮の場面が、振り切れすぎて爆笑を誘うほどの美しさと構成美を持って描写される。残虐さもここまで美しく描写されると笑いが込み上げてくるのだなと不思議で仕方がなかったのと同時に「境界線」を間近に見てしまった恐怖も感じるという贅沢な感情の渋滞。いや、こっちの頭も振り切れそうでしたよ本当に…。

映像面では、トウモロコシ畑の中で繰り広げられる腐乱死体にそっくりな案山子とのダンスからの自慰行為シーンの無邪気さには、かの伝説的なグロ映画「ネクロマンティック」を連想し、ワニの卵の損壊シーンとモンタージュされた「帰還兵大爆発」シーンや腐敗し蛆虫が蠢く豚の丸焼きをメインディッシュに両親の亡骸を囲んでの最後の晩餐に見ることができる崩壊の美学はピーターグリナウェイの「Zoo」やダミアン・ハーストの死体損壊オブジェにも通じるコンテンポラリーなアート性を感じた。

ピーター・グリナウェイ「ZOO
ダミアン・ハースト「母と子、分断されて」


ラストシーンの微笑みとも懇願ともつかぬパールの表情はデビッド・リンチの「イレイザーヘッド」に出てくる「Beautiful Girl Across the Hall」を連想したし、改めてタイ・ウエスト監督の感性の鋭さとジャンルを軽々と横断できる才能とチャレンジ精神に感服した。

イレイザーヘッドより「Beautiful Girl Across the Hall



オープニングが前作と同様のショットから始まったり、パールとマキシーンが同じポーズを取ってみたり、同じオーバーオールを着ていたり。同じセリフを発していたり、見ようによっては「タイムトラベルムービー」にも思えて、公開を控える第3作はパールとマキシーンの繋がりにSF的な解釈が持ち込まれたりするのではと妙な期待も抱いてしまう不思議な映画であった。

「オズの魔法使い」との類似性を語るレビューも多いがパールには仲間もいないし、旅に出ることすら叶わない。パールは間が悪くて、神から見放された殺人者のまま、広大だが長い人生を過ごすにはあまりに狭いあの農場でここから60年過ごしていたという絶望の未来が、エンドロールに至るパールの複雑な表情に込められているのだと思う。

「タイ・ウエスト監督とミア・ゴスは調子に乗っている。」調子に乗るという慣用句はネガティブに捉えられることのほうが多いが「非常に順調に進む様」を表すときにも用いられる。まさに本作のキーマン2人は絶好調。そんな時期にしか作れない奇跡的な作品だと思いました。パンフレットが売り切れだったのが残念!


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