「激闘に叫ぶ愛」ってすごいタイトル

なんで突然Gレコの話をするかって今日Gレコ3部を観返していたからで、けどGレコの話をしたくても周りにGレコを観てる人が誰もいないのでツイートではなくここで書くことにしました。
まだ観てない人は劇場版からとりあえず観てください。たぶん初見だとよくわかんないと思うけど、わかんなくても面白いので大丈夫です。そしてわたしとGレコの話をしてください。




Gレコ四部ってめっぽう面白い映画で、観たときは興奮しきりだったのだけど「激闘に叫ぶ愛」ってタイトルはあまりにもマニィ・アンバサダの話すぎないか? という疑問があった。これまでベルリとか遺産とかコア・ファイターの話をしているのに、本当にここにマニィとかが題名に? という疑問だ。同じ疑問を抱いた人も多いんじゃないかと思う。

実際思い返したとき、これはマニィのことで合ってるのだと思う。しかしGレコを引っ張っているレイハントン姉弟を見ていくと、アイーダはビーナス・グロゥブに行き着いてラ・グー総帥と話すことで、こりゃもう激闘に愛を叫んでいる場合ではないということを知る。ベルリはフォトン・トルピードの諸々を経てもはや激闘に哀を叫んでしまっている始末で、愛どころの話じゃなくなっている。こうした出来事は彼らの血肉になって、その後の行動によく反映されていくわけです。
かく言うマニィは、四部序盤のビーナス・グロゥブへの旅程でみんなが宇宙での暮らしをやっているさなかに遠くの星のルインを想っていて、その果てにメガ・ファウナを離れてルインのもとに戻っていく。

このマニィの想い、行動が悪いという話ではなくて(むしろ再会できてよかったね……LOVE……)、Gレコが抱えてる問題を一身に抱えてる子達と違う視座で状況を見ているのがマニィであり、それは「激闘に叫ぶ愛」という超絶にかっこいいタイトルにもなり得る……けれど、宇宙的な視点で物事を見つめられていないという皮肉にもなっている、ということ。いや、これをタイトルに据えている富野由悠季、なに??? すごいよ……。

ついでに話すけど、5部の「死線を越えて」というタイトルもいい。
GのレコンギスタTVシリーズでは25話が「死線を越えて」。最終話の26話が「大地に立つ」というサブタイトル。放送当時大興奮したのを覚えている。ガンダムが大地に立って、また大地に立つのか! と。当時は自我がなかったのでそれ以外なにもわからなかった。そもそもGレコがどういう話なのかもよくわかってなかった。

実際このタイトルは秀逸で、かつてアムロ・レイを載せたガンダムが物語の最初に立ち上がり、築き上げられたサーガの果てにまた大地に立つ──その文脈をふまえずとも「宇宙で激闘を繰り広げた全勢力が最終的に地球へと降下していく」という話の流れを汲み取ると共に「地球を飛び立った少年少女たちが自分たちを取り巻く謎や宇宙を取り巻く現実と直面し、すべて知った上で真の意味で母なる大地に立つ(行きて帰る物語)」という物語の構造を重ねて捉えた超クールなタイトルだ。
しかし映画Gレコ5部のタイトルは「死線を越えて」だった。これも映画を観る前、観る直後はなんでやろなぁ……と思ったけれど、今日いろいろ考えていてなんとなく掴めてきた。

「大地に立つ」というタイトルはどうしても「ガンダムシリーズ」の文脈を汲むニュアンスが強く出て、物語の終わり、サーガの終わりのような香りが立ってしまう。それはそれで美しいのだけど、5部のポスターには「ここから始まる『Gのレコンギスタ』!」とあり、実際この物語は今一度大地に立ったベルリたちがまた新たな旅に出る……いわばライフゴーズオンで幕を閉じる。これにはたしかに「大地に立つ」が持つ終わりの美しさよりも「死線を越えて」という、戦いの果てに彼らが行き着く先、まだ見ぬ越えた先の世界を思わせる題の方がさまざまな意味でビシッとハマっている。これこそGレコが新たに作り直された意味だな……と。

Gレコ、観て考えるほど新しい発見があって嬉しい。あとはおもちゃが再販されれば完璧なんだけど~~。

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