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中年ばかりの小児病棟で。

わたしがいた病院は、小児期発症の神経筋疾患を専門に診るところだ。

わたしが入院した頃は、小児病棟と呼んでも違和感がない年齢層の患者が多かった。
けれど、医療の進歩・発展のおかげで患者の平均余命がかなり延びたことと、地域の学校を卒業してから入院して来る患者が多くなったことも重なって、わたしが退院する頃には中年ばかりが幅をきかせる病棟になっていた。笑


元気な期間が延びたのは喜ばしい。
一方で、わたしはもぞもぞしていた。

たとえば。

薬の袋に【小児科】って書かれること。
気はずかしいというか、「なんか、こんな身なりなのにすんません」と恐縮してしまう。

保育専門学校の学生さんが実習に来たとき。
「あ…この学生さん絶対『え、小児科…え?(かわいいちびっこがいない…)』って思ってるよなぁ…」と、何ともいたたまれない気持ちになっていた。


そんな、中年ばかりの病棟でも標榜科は【小児科】なので、看護師さんのほかにも、児童指導員さんと保育士さんも配属される。

児童指導員さんは、地域連携や行政とのやりとり、保護者との調整など、ケースワーカー的な役割をしつつ、患者のメンタルケアなどもしてくれる人たち。

保育士さんは、何せ中年ばかりの病棟(いや小中学生もいるけどね?数人…)だもんで、本来の業務のイメージとはちょっと違う立ち位置なのかもしれない。
けど、季節ごとに病棟を装飾してくれたりするのは保育士さんっぽいと思う。
あと、指導員さんと同様に患者の悩みを聞いてくれたりする人たち。


わたしが20代半ばの頃から退院までの10数年間、わたしの病棟にいた保育士さんは、とても素敵な人だ。

常に患者のためを思い、時に厳しく、とても優しい。
べたべたした甘々な優しさではないのが心地よかった。
看護師さんたちともしっかり連携をして、立てるところは立て、言うべきところは言う。

病棟での行事も、患者と一緒に企画して、看護師さんたちも巻き込んで楽しんだ。
カラオケもかき氷もしゃぼん玉もビンゴも、みんなで遊んだ。
知的障害を合併している人も多くいて、その人たちもみんな役割を持ってゲームを考えたり、一緒に楽しんだりできるように、率先して手伝ってくれた。

先にも少し触れたけど、季節ごとにそれぞれの病棟の保育士さんが施す装飾も、その保育士さんはすごかった。
毎月趣向を凝らしていて、廊下を通る人たちが
「ここの病棟の飾りはいつも綺麗だね!」
と言ってくれるたびに、なぜかわたしが自慢げだった。


七夕のときには、保育士さんのご近所から笹をいただいて、みんなで飾りを作り、短冊に願いごとを書いた。

「彼女が欲しい」
「お金をください」
「氷川きよしに会いたい」

等々、欲の限りが吊るされた笹の葉はぐったりと重たそうではあったけど、きらきらしていた。



わたしは、その短冊に(半ばネタだけど)
「三十路までに素敵な出会いがありますように」
と書いたら、本当に三十路寸前で彼氏ができたので、保育士さんに
「この笹飾りすごいよ!願い叶うわ!保母さんも書いた方がいいわ!」
と言ったら、保育士さんは、
「あれー!すごいねー!じゃー書くわー」
と言って、

「ずーっとこの病棟にいられますように」

と書いた。

保育士さんと指導員さんは、数年に1度病棟間で異動がある。
その時期が近づくと、わたしたちはドキドキする。
ちょっと苦手な人がいる場合は、「どっか行くかな??」
好きな人がいる場合は、「どこも行かないよね…??」
と、ドキドキの種類は異なるけど。

このときのわたしたちは、圧倒的に後者だった。
だから、保育士さんに短冊をオススメした。

そして、その願いは、叶った。
それからも毎年、同じ願いごとを書いてくれた。
結果、わたしと旦那さんが退院してからも、昨年の病院の移転まで10年以上在籍した。


わたしたちのように、長期療養生活を送る者にとって、保育士さんは姉のような母のような存在だ。
そういう存在の人と両思いか否か というのは、けっこう生活の質を左右する大きなことだ。

たとえ社交辞令だったとしても、
「ずーっとこの病棟にいられますように」
と書いてくれる人が生活の中にいてくれることは、わたしの中で大きな支えだった。

そしていまも、わたしたちの暮らしを応援し、メールをくれたり会いに来てくれたり(コロナが流行ってからは会えていないけど)と、離れても姉のような母のような存在でいてくれている。

きっと、保育士さんが書いた願いごとは、社交辞令なんかじゃない。
そう思える関係を築いてきた自信がある。


七夕の今日、思いを馳せたのはそういう思い出。


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