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「実話」「当事者」じゃないと気持ちよくなれない人々

私は同性のパートナーと長いこと生活しているので皆さんの好んで言うところの「当事者」様である。わざわざ普段から言う必要を感じていないので言っていない。私は作者の性別、恋愛やセックスの指向を考えながらフィクションを読んだり描くことはないがどうにも世間にはそういうタイプの消費が大好きな人が多いらしく、「当事者の描いたフィクションだから上等なものであり、それ以外は下等」「当事者はフィクションにおける同性愛の表象を全て自分に引き寄せて語っても許される」「自分たちのしょうもない生活をどうにかチヤホヤしてほしい」というタイプの言動や創作を行う人間が跳梁跋扈する中でわざわざ自身の情報を見せびらかしても真っ当な出来事が起きるとは思えない。「感動の実話!」の謳い文句にわざわざ格納される趣味はない。フィクションにも私の生活にも唾を吐くことになってしまう。
前の日記でも繰り返し話したが、このような価値観はやがて「これは非業の死を遂げた作者が書いたのでえらい作品です」というように作者の生き死にさえフィクションの肥やしにし始める。そういう様は何度か目にしたが大嫌いだ。
深く話すつもりはないが当事者のコミュニティで嫌な目に遭ったこともあり「連帯」という言葉も大嫌いだ。性別やセクシャリティを問わず、つまり男女だろうが女同士男同士それ以外だろうが知らんやつのしょうもない恋愛話なんてどうでもいい、というのはそんなに変な話だろうか。同性婚が明らかにしょうもない価値観由来のゴネにより我が国でシステムとして実装されていないことには腹が立つが、本質的には興味がない。そもそもヘテロ間の結婚は友達のものなら祝うくらいはするが全く魅力を感じることがない。「結婚」概念のファン達には申し訳ないが最終的には平等になった末に解体されるべき悪しきシステムだと思っている。
さてこうして「黙って」過ごしながら創作をしていると何が起きるのかといえば、一部の当事者や「アライ」の方々、あるいはそれらのどれでもないがいちゃもんを付けたい人々などがシスヘテロという前提でこちらを勝手に理解し、何なら下に見てくるのである。この手の人間に下に見られても気にすることはないのかもしれないが、腹が立つには立つので一応こういう形で記しておく。

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