イーズカのデンツー時代

 イーズカがデンツーに居たのは1989年から1994年までの5年間で、契約社員として当時のセールスプロモーション局の業務推進部に在籍した。32歳から37歳までてある。
 バブルの再末期からバブル崩壊後までに跨っていた。
 メインクライアントは北千住ルミネ(当初はWIZという名称)で、その親会社はJR東日本である。国鉄がJRとして株式上場するに当たり、優良子会社をまとめる必要があり、新宿・横浜のルミネに立川・大宮・北千住の駅ビルがルミネとして統合された。
 イーズカが担当した頃はまだWIZで、東京・東北部の田舎にありながら独自のクリエイティブを展開していた。
 まだJR系駅ビルに独自に広告展開するノウハウがなく、デンツーにすべてが任されていた。
 ファッション流通の駅ビルなので、地域密着型の展開となる。新聞折込チラシが効くので、年間20回以上のチラシ折り込みをしていた。8ページから16ページのチラシを通常時に35万部、セール時には50万部以上を投入していた。
 おかげで一年中毎日、校正紙をもって北千住に通っていた。偶然に日暮里に住んでいたので助かった。
 館内装飾の切り替えは22時の閉店後に始まるので、仕上がりはいつも朝方5時くらいである。
 サマーセール、バーゲン、クリアランス、クリスマスセール、年末年始、バーゲン、クリアランス、スプリングセールなどが一年中繰り返されていた。
 デンツーとしてはそれほど巨額ではないが、セールスプロモーション局としてはビッグクライアントで、年間8億円くらいの売り上げがあった。
 テレビなら簡単に稼げる金額だが、SP局ではすべてが印刷物と販促小物、館内装飾、イベント、プレミアム賞品など、手間ヒマが掛かる少額を積み上げたものである。
 ただクライアントの現場との関係は良く、部長以下すべての人々と校正終了後に応接室で飲んでいた。いつも何処からともなく酒が出てきて、レストランフロアからの差し入れもあり、ツマミには苦労しなかった。
 また北千住にはオモシロイ飲み屋が多数あり、すべてに行き尽くしていた。飲み屋からしたら超上得意の常連客だった。
 ホントに毎晩であり、当時はXAX銀座でエアロビをしていたので、早朝7時30分からのレッスンに出ていた。
 さすがにこの5年間は酒に強くなった。
 しかし事態は変化する。社長がJR本体から来ていた強烈な人物で、JR企画に切り替えたいのが露骨だった。
 先輩の営業社員は「いいかイーズカ、こちらからはゼッタイに下りない。もう結構です、と言われるまではやり続ける」と断言していた。
 なかば覚悟はしていたが、最後には撤退戦の様相を呈してくる。
 客先に通うのはイーズカなので、社長から「デンツーは今回、こんなコピーを出してきた」と揚げ足取りがヒドくなってきた。
 あまりにキツイので営業に泣きついた。「もう撤退できませんか?」と言うと、彼は「オマエはこの年間8億円の仕事を、他から持ってくることが出来るのか。この仕事で食っている協力会社を守らなくてはならない。」
 「オマエが苦しいのは良く分かる。しかしオレが出ていくと、決着を付けなくてはならなくなる。耐えてくれ、その代わり酒は飲みたいだけ飲ませてやる。」
 そして飲んだくれながら撤退戦を続けた。朝まで飲んで反吐を吐き、ゲロにまみれて出社して、客先にも行った。
 あとでクライアントの担当者から「オシャレなイーズカさんのスーツの袖にゲロがこびりついていた。よっぽどツライんだろうなと心配していました。」と教えられた。
 現場担当者としても、社長には逆らえずデンツーを応援することしかできなかった。
 最終プレゼンで敗北の結果を聞かされた後、営業部長以下全員が集まって「お疲れ会」をしてくれた。デンツーはイーズカひとりであった。
 3軒目くらいでカラオケに行った。酒がまずく味がしない。ただ、歌っていたら突然に「ウォー」と号泣してしまい、話すこともできなくなった。
 クライアントも声も掛けられない状態になり、仕方なく散会した。
 この後は敗戦処理を淡々と行った。
 この時の人間関係は、客先とも競合先とも30年近く続いている。
 こんな出来事が枚挙に暇なく、デンツーでは繰り広げられていたはずである。デンツーとて勝ち続けていた訳ではない。
 それ故に、現在のデンツーの姿には腹が立つ。


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