笑いのZUMBA

 月曜日は夕方は通夜だったので、午前中のZUMBAに出た。イントラは女性で胸や腰の旋回運動が多く、もっとも難しいクラスである。

 いつも、やっている最中にオモシロイ雑談が入る。今回は「異常な老人」の話であった。
 「ホントにおじいちゃんなんだけど、左右にジャンプする時2メートルくらい飛ぶんですよ」という話だった。実演するので、その異常さが良く分かる。
 「なんか特殊部隊に居たらしくて、身体能力が並外れているの」と言っていた。

 全員が「クスクス」と笑っていた。「ウチにも居るじゃない」という笑いである。
 斜め前の韓国籍のテコンドー選手が、振り返って目配せしてくれた。

 そう、イーズカもある種の「特殊部隊」出身である。学生運動の「ゲバルト部隊」である。「鉄パイプ3段、火炎瓶2級」と豪語してきた。
 三里塚闘争で1979年に「空港開港阻止闘争」が行われ、管制塔が占拠され開港が3か月ほど遅れた。

 あの時は、夜陰に紛れて茶畑の中を匍匐前進していた。頭上ではヘリコプターがサーチライトを照らしながら飛び回り戦場のようだった。
 「ここはベトナムか? 」と見間違う光景で、管制塔占拠後は火炎瓶と催涙弾が飛び交っていた。その中で機動隊を蹴散らしていた。

 それまでのデモでは、圧倒的に押しまくられ、コテンパンに殴られていた。
 この時ばかりは、機動隊員も動揺してデモ隊列に蹴散らされ、敗走する後ろから火炎瓶を投げつけられていた。
 イーズカはガタイが良いので、最前列の左端に配置され押しまくっていたら、ヘルメットの上から「3段ロッド式のナチス棒(先端に重い鉛が仕込んである)」で殴られて、記憶喪失になった。軽い脳震盪であった。
 そのまま野戦病院に担ぎ込まれ、偶然に高校の同級生と会って、記憶が戻った。

 そんな「戦場」で戦い、学内では原理研などを袋叩きにしていた。まさに「特殊部隊」の戦闘員だった。
 大学卒業後に1983年からエアロビクスを始めた。学生時代から、下宿では腹筋100回。腕立て伏せ100回、柔軟体操を日課にしていた。
 もともと屈強な「農民のカラダ」を鍛えに鍛えまくっていた。

 エアロビでもダンスクラスはクネクネとやっているが、ボクササイズでは、シャドープレーながら、「殴り殺す」つもりでパンチを打っている。

 そう、スタジオ仲間の女性たちの「笑い」は正しい。

 鍛えていれば、80歳になっても「戦闘員のカラダ」が保てるのである。


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