創作日記 その13

 今日は雨の日でもあり、随分と書き進んだ。カーペンターズの『雨の日と月曜日は』を聴きながら筆が進む。しかしイーズカ文体は説明調が多い。情景から話が進められない。

 大好きな奥田英朗の『最悪』を読むと、情景描写の中に色々と仕掛けが散りばめられている。
 ここまではイーズカの現状の能力では荷が重い。書きたいことは書いている。しかし「読みたいモノが書いてある」かは疑問が残る。作文という作業は、もう40年は続けている。しかし小説は処女地帯である。還暦を越えても未体験分野は残っていた。

 どんな創作活動にも「思い入れ」と「客観視」が同時並行している。作者が客観視するのはムツカシイ。

 むかし飲み仲間である英文翻訳者であるイイダ先生に「物語を最初から作るのは、致命的な欠陥のある人間にしかできない。僕はそんな事は無理なので翻訳者になった。」と言われた事がある。
 「イーズカ君、君には大いなる欠陥があるから可能だ」と言われたような気がしていた。彼には意地悪なところがあって「破綻するよ」と予告されたこともある。
 彼が亡くなってもう2年以上が経とうとしている。偶然に近所に住むことになって色々な関わりが出来た。我が家のパーティに来たエスパのさと子さんがイイダ先生宅の玄関ドアを叩きまくって先生から怒られたこともあった。

 そのさと子さんとは、もう40年以上の付き合いである。共にビンボーの中から出発して戦友のような関係でもある。彼女の部分も時折小説に出しているが、納得できるレベルではない。
 不愉快なことも多いが、無視も出来ない。腐れ縁というヤツである。

 これから一週間で手直ししなくてはならない部分が沢山ある。
この小説は小説と呼べるかどうかは置くとして、イーズカの半生記である。 深く関わった人間が登場する。甘くて恥ずかしい内容が延々と続く。

 恥を恥とも思わぬイーズカであるが故に、語らずには居られないのである。因果な性格だと思う。書いていて涙が止まらない場面が多数ある。
 そんな恥多き人生を、誰にも訊かれていないのに書いている。締め切りというものがあって良かった。これが無かったら、たぶん耐えられない。

 すべては自分が蒔いたタネだから、みずから回収するしかないのだと思っている。
小説家というものは、みずからを筆頭に親類縁者の恥を晒しながら生きていく。

 闇夜に誰かに刺し殺されないか、だけが心配である。


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