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メソポタミアン・ラプソディー

 去年、ここで『常陸国風土記』の現代語訳をしていた頃には、翌年再び小説を書けるようになるとは露ほども思っていませんでした。「はるかな昔」は、小説を再開するための準備というようなものでは全くなかったのです。好きな文章を訳したかっただけでした。

 しかし、今年の四月から約半年間、自らは知るはずもない、はるか昔の遠い世界の人々の間にわが身を浸しつつ文字を綴っていると、古代人の生活誌である『常陸国風土記』を現代語に訳したことは、メソポタミアの歴史を題材に小説を書くという突拍子もない企ての予行演習だったように思えて来ました。

 新作『宮殿のアルファベット』は、校正と修正が終わり、いよいよ電子化するための作業を始めるばかりとなりました。すると妙に緊張感が高まって、イライラと落ち着かなくなりました。われながら情けない小心さと思いますが、六年余り小説を書けなかったので、長い空白の後で舞台や試合の場に臨む役者や運動選手のような心持ちなのだ、と自分に都合のいい解釈をしておくことにします。

 前々回に示した書き出しは、以下のように変更になりました。決定稿のつもりだったのですが、読み返す内に直したくなったのです。皆さんご存じのように、パソコンだと直しは切りがなくなります。Kindle版をリリースできたら、告知のためにここに戻って来ます。 Coming soon !?

 私たちの主人公エタルは、大抵どんなクラスにもいる友達の少ない無口な少年だった。今から三千数百年の昔、古代メソポタミアの学校にも、そんな生徒はいたのである。学校では粘土板に刻む楔形文字を学んだ。楔形文字はメソポタミアの都市国家共通の文化であり、宮殿の書記になるにはその修得が必須だった。主人公は、ユーフラテス川中流域にあって、下流域のバビロンと並び称される都市国家の、王宮に近い書記学校に通っていた。しかし、エタルは実は書記になりたいと願っていたわけではなかった。

  第一章 エタル、学校に行く

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 エタルの同級生たちは、教師に与えられた見本を練習用の粘土板に書き写しながら、退屈してお喋りを始めた。エタルはそうした輪に入らず黙っている。
 やがて、アッドゥ先生の我慢が限界に来た。
「お前ら、喋るのをやめろ」
 注意されて、生徒たちはしばらく静かになる。だが、長く続かない。最初はそよ風に流される砂粒のように小さな声でささやきあっていたのに、たちまち市場に集められたロバみたいに騒がしくなる。
「静かにしろと言っただろ」
 アッドゥ先生は怒鳴り声を張り上げる。
 こうして、生徒たちに罰の課題が出される。
「牛のあぶらと二十回書け」
 手の早い生徒たちが書き終える頃、先生は次の課題を与える。
「羊の脂と三十回書け」
 静かにしていたエタルも同じ罰を受ける。
 エタルの横に座っているヤシトナが不満で唇の先を尖らせる。先生がそれを見とがめ、教鞭でヤシトナの頭と肩ををたたいた。ヤシトナの顎は細いので、唇を尖らせると目立つのだ。
 エタルがその様子を見ていると、先生はエタルの肩もたたいた。
 翌日、エタルが学校に向かって歩いていると、同級生たちが違う方角に向かうのが目に入った。

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