隅田川会談逸話のネタ元を探す
1.渋沢秀雄のエッセイ
渋沢栄一の四男渋沢秀雄は、第二次世界大戦前から実業界で活躍する一方で随筆をよく書き、戦後公職追放を受けた後にはエッセイストとして筆をふるいました。父栄一は彼の主要な題材で、隅田川の岩崎弥太郎との会談についても何度も記しています。秀雄の随筆は(私は少しのぞいただけですが)育ちの良さから来る鷹揚な雰囲気に魅力があり、大戦前後の富裕な階層の生活ぶりを嫌味なく読ませる筆力と人徳があるようです。
ところが、父と弥太郎の隅田川会談について書く時、筆致から持ち味のおおらかさが消えます。弥太郎と三菱に対しては辛辣なのです。戦後、栄一に関心を持つ人々に二人の会談の逸話が広まったのは、この秀雄の著述が源泉になっていたように思われます。秀雄は、子供向け伝記を含む多数の父をめぐる著作に、必ずのようにこの会談について記したのです(内容はどれもほぼ同一)。
秀雄の主著『父 渋沢栄一』(実業之日本社、1959年)の「まえがき」には「渋沢栄一という名前を覚えている人もへった」とあります。が、この本は今に至るまで版を重ねています。秀雄や渋沢史料館の尽力で、栄一の名前は忘れられるどころか恐らく秀雄の想像を超えて大きくなり、ついに一万円札の顔となりました。その過程で、敵役弥太郎との隅田川会談の逸話は、秀雄はその「出典」が栄一の思い出話であるとは記しませんでしたから、「客観的事実」であるかのように広まりました。
2.偉大な国会図書館デジタルコレクション
さて、私はこの逸話は、出所が『渋沢栄一伝記資料』中の「青淵先生伝初稿」や「雨夜譚会談話筆記」であり、第二次世界大戦後に知られるようになったと信じていたわけですが、前回の記事に追記したように、これは正確ではありませんでした。弥太郎に関する新書を準備していた十数年前、誰も逸話の出典を書かないので、私は『伝記資料』(全68巻)に見つかるのではと見当をつけ、当時勤めていた大学図書館の地下深い書庫に潜り込んで、その第8巻に該当の文章を見つけたのでした。
ところが、『父 渋沢栄一』中に触れられていた『財界太平記』を国会図書館デジタルコレクションで読むと、この昭和4年刊の本には栄一と弥太郎の会談について近似の内容が記されていたのです。となると、「青淵先生伝初稿」や「雨夜譚会談話筆記」以外に出典がある……? 私は主に弥太郎側から問題を追っていて、栄一関連の文献の探究は二の次でした。『伝記資料』の該当箇所にたどりつくまでの面倒を思い出すと、捜すのは気が進みません。逸話の出所が不明なのは、私ではなく栄一研究者の責任なのだし……。
頭の働きが鈍い私は、デジタルコレクションで蔵書検索をしてみたらいいと思いつくまでに時間を要しました。題名に「渋沢栄一」、年代を明治から戦後の時期として検索すると、160以上のタイトルがリスト化され、逸話に触れていそうな候補がいくつか見つかりました。しかも、目次からクリック一つで調べたい箇所に飛べるので、以前の探究が空しくなるほど簡単に内容を確かめられました。気づいた限りでは三冊に言及がありました。いま私にわかっている戦前の逸話関連文献は、以下の通りです。
3.大戦前の隅田川逸話の広がり
上記文献中『評伝』の刊行年は突出して古く、唯一「談話筆記」以前です。会談への言及は簡単ですが、内容は他と共通性があり、「合本」にも言及されています。栄一の還暦(1899年)を期に行われた談話の筆記は公開されていませんでしたが、実は一部外に出ていて、『評伝』は「雨夜譚」等に未収載の箇所を参照したのかもしれません。あくまで推測ですが。
『太平記』は「座談」と内容に微妙な相違があり、もしかしたら著者は「談話筆記」を伝聞で知ったか、別のソースがあったのかもしれません。『翁』では「談話筆記」の文章がそのまま引用されており、「談話筆記」は戦後まで公刊されなかったものの、一部にしろ内容が明かされていたことが分かります。露伴『伝』の逸話の記述はメモ程度で、秀湖や白石の著作を参照すれば書ける内容です。この本、昔途中まで読んで挫折したことを思い出しました。
戦前の逸話の探究は、ここまでとします。いずれの著作にも「合本」への言及があり、出典は明らかでなくとも、逸話の出所は隅田川の会談が行われて年月を経た後、栄一が語った思い出話だと推察できるからです。前回記したように「栄一は後年深化した自らの経営思想に合わせて過去の記憶を改変して話し」たのでした。また、戦前の諸本が、戦後の逸話の大きな広がりに寄与したとは考えられません。この先の探究は栄一研究者に任せたいと思います。
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