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風土記の地名物語――常陸国14

 多珂郡たかのこおりは常陸国の最北に位置し、陸奥国みちのくのくにに隣接しています。「常陸国風土記」は、ここで終わります。ブログ「はるかな昔 風土記の地名物語」も、これにて最終回。常陸国が終わっただけなのに風土記全体をやめるのは、面白い偶然があって、他の風土記の抄訳をする必要がなくなったからです。この事情については、次回「あとがき」で触れます。

 多珂国と陸奥国の境 

 古老は次のように語っています。成務天皇の御代みよに、建御狭日命たけむさひのみことを多珂の国の国造くにのみやつこに任命しました。この人は初めてこの地に来て、その地勢を見てまわり、峰が険しく、山が高いと思って多珂の国と名づけたのでした。

 建御狭日命は、遣わされて来た際に、久慈との境である助河すけかわ道のくち(多珂郡への入り口)とし、陸奥国石城郡いわきのこおり苦麻くまの村を道のしり(多珂郡の北の果て)としました。郡役所から西北方向に六十里には、今なお道前里みちのくちのさとと称しているところがあります。

 その後、孝徳天皇の御代になって癸丑みずのとうしの年(西暦653年)、多珂の国造や石城の郡長官らが、地域を監督する惣領すべおさ高尚大夫たかむこのまえつぎみに請願して、所轄の領域が遠く隔たっていて、往き来の便が良くないことから、分けて多珂、石城の二つの郡を置くことになりました。石城郡は、今は陸奥の国の境の内側にあります。

 海と山の幸を競い合う

 その道前の里に飽田あきたの村があります。古老は次のように語っています。倭武天皇やまとたけるのすめらみことが東の辺境の地をご巡幸なさろうとして、ここの野で仮の宿りをなさいました。その時、ある人が申し上げました。

「この辺りの野に群れる鹿は、数え切れないほど多く、そびえる角はまるで枯芦の原のようです。その吐く息をたとえるとすれば、朝霧が立ち昇る様に似ています。また、海には鰒魚あわびがあって、その大きさは並大抵ではありません。また、その他様々の珍しい味わいの獲物が数多く得られます」

 そこで、天皇は野原にお出ましになりました。橘の皇后おおきさきを遣わし、海辺で漁をさせました。獲物の量を互いに競い合おうと、山と海に別れて探し求めたのです。この時、野の狩りでは終日駆け回って射とめようとしたものの、ただ一頭の獣すら得られませんでした。

 海の漁においては、ほんのわずかの間採っただけなのに、数多くの様々な味わいの収穫がありました。狩りと漁がすっかり終わって、神様に御膳みつけものを捧げられた時、天皇は従っていた官人に仰せられました。

「今日の遊びは、れと妻の皇后がそれぞれ野と海に行き、共に獲物を競い合った。野の物は得られなかったけれど、海の味覚はすべて飽きるほど食らったことだった」
 後世、この事跡によって、飽田の村と名づけたのでした。

 仏の浜と藻嶋めしまの浜

 常陸国の国司が河原かわら宿祢黒麿すくねくろまろであった時、大海おおうみ(太平洋)のほとりの石壁に、観世音菩薩かんぜおんぼさつの像を彫り造りました。今も残存しています。それで仏の浜と名づけました。

 郡役所の南三十里に、藻嶋駅家うまやがあります。その東南の浜に産する碁石は、色がまるで珠のようです。常陸国の碁石と世にいわれる美しい碁石は、ただこの浜にだけあります。

 昔、倭武天皇が舟に乗り、海上から嶋の磯をご覧遊ばしたところ、そこに様々な海藻がたくさん生い繁り栄えていました。それで藻嶋と名づけました。今も昔と同じです。

 常陸国14 解説
 多珂郡は、現在の茨城県北部、高萩市、北茨城市、日立市の地域にあたります。今の福島県いわき市や双葉郡も含まれていました。
「常陸国と陸奥国の境界」では、多珂郡の地理、建御狭日命が出雲臣いずものおみと同族であること、高尚大夫に請願した地方官たちの名前を省きました。
 仏の浜の件り、秋本吉徳氏によれば、五カ国の風土記中で造仏や仏に関する記述があるのは、ここだけなのだそうです(『常陸国風土記』講談社学術文庫)。当時の仏教の地方への広がりはどうだったのか、興味がわきます。
 写真はイメージです(Wikipediaより。鹿児島県馬毛島のニホンジカ)。

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