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会社の創造というイノベーション

 近代的な営利企業としての会社を創造したこと――これこそ、岩崎弥太郎が明治維新期になしとげたイノベーションの本質でした。こうした会社企業は、弥太郎の三菱以前には日本に存在しませんでした。三菱はこの先進性を活かして競争相手に打ち勝ち、国内海運業界の覇権を握ります。

 会社の構成員は、それぞれ自由意志によって加入します。これは、現在に続く、会社企業存立の根本的な前提ですが、日本でこの前提を満たしたのは弥太郎の商会(後の三菱)が初めてでした。最初期の従業員の多くは藩営土佐商会に配属されていた元土佐藩士で、商会が藩営から弥太郎個人の所有とされた時、自ら選択してその部下となったのです(去った者もいました)。

 藩を離れて退路を断ち、自ら選んで商会に参加した「社員」が、身分制度のもと割り振られて業に就いた者より高いモチベーションを持つのは当然です。岩崎弥太郎は、海援隊という有志の集団を、この新しい組織のあり方のヒントにしたように思えます。弥太郎は読書家ですが、普段は小説本の類を殆ど読まないのに、海援隊とやりとりしていた時期の日記には「南総里見八犬伝」や「水滸伝」の名が出て来ます。

 武士という知識層が中核的な構成員となったことも画期的でした。明治になっても当分の間、伝統的な商家や廻船問屋には丁稚奉公から育った者しかいませんでした。全国規模の海運業は、西洋渡来の新式帆船、蒸気機関や航海術を用いる当時のハイテク産業であり、また組織化された支店網が必要でしたから、ある程度以上の教育を受けた人材が不可欠だったのです。

 会社の誕生について、第一国立銀行やら渋沢栄一の功績やらを、まず思い浮かべる方がいると思います。詳述しませんが、日本における株式会社の誕生と、会社の誕生は別のことです。私の新書をお読みいただければ幸いです。この新書の約1年後、東大経済学部教授(当時)の武田晴人氏が(会社という言葉は使わず)私とほぼ同趣旨のことを述べています。「大規模な事業組織としての内実をもった企業を作り上げたのは、人材を有効に活用しながら築きあげられた三菱の方ではなかったかと考えられる」

『岩崎弥太郎』武田晴人、ミネルヴァ書房、2011年

 弥太郎は、知識層が自由意志によって加入するという近代的な会社のあり方をいち早く実現して事業を成功させました。しかし、事業の成功がイノベーションの成果であることは知られることがありませんでした。藩や幕府の公金をくすねて私業の原資とした、政府の有力者に取り入り政商となって儲けたといった悪評が立ち、その真の姿が見えなくなったのです。数少ない弥太郎の擁護者も、彼の改革の本質を理解できませんでした。

「アンチ」が多数派で、勢いもあるとなると、悪評は後々まで、様々な面でたたります。前回見た堀内恒夫氏のWikiやコメントを思い出して下さい。堀内氏は自民党の議員候補となったことで「アンチ」の標的にされたようです。弥太郎もまた政敵の工作によって世論を敵に回すことになります。ただし弥太郎の場合は、競争相手を叩きのめし、独占の果実を最大限手に入れようとしたので、敵が多くなるのは必然でした。

 岩崎弥太郎と違って、スティーブ・ジョブズは誰もが認めるイノベーターです。コンピュータをパーソナルなものにし、スマートフォンで携帯電話を情報機器に変貌させました。彼は新技術を発明したのではなく、情報技術の新しい使い方を生み出し、広く普及させることで世界を変えたのでした。一方で、ジョブズが偏りのある人格だったことはよく知られています。Wikipediaでは「サイコパスと考えられる起業家」として名が挙げられています。

 Wikipediaの「サイコパスの起業家」にイーロン・マスクの名前がない(2023年8月4日現在)のは、しばらく内容が更新されていないからでしょう。自社の車の欠陥で人の生死に関わる問題が生じても謝罪せず、苦情申し立て撃退のための部署を作り、眩しすぎる看板を立てて非難が殺到しても黙殺、役人が調査に来たら追い返す。その一方で中国共産党ににらまれそうになると、あっさり謝る……。このサイコパスぶりが許される(?)のは、実現したイノベーションが桁外れのものだからでしょうか? ジョブズの「悪」は、マスクの前ではかわいく見えます。

 才気煥発の一方で利かん気、いたずら好きの子供時代。長じては傲岸不遜、敵味方を問わず冷酷に振るまうことがある一方で、高いコミュニケーション能力を持つ。ジョブズと弥太郎の人格に共通性があることは、双方の伝記を読んだ人には明らかです。「彼の人生や性格にはどうにもめちゃくちゃな部分がある」とジョブスの最後の妻は語っています。弥太郎は、母が「いけぬ子供」だったと表現する子供時代の性質を死ぬまで持ち続けたように思えます。

 私は、かつて抱いた「自分が会社員であることの強烈な違和感」の正体を確かめようと、会社と会社員の起源を探る長い旅をしました。その結果、岩崎弥太郎の三菱に辿り着いたのです。弥太郎について知ったのは、しかしその余録というわけではなく、会社の創造というイノベーションを行った人間を探ることは是非とも必要でした。

 ここで、ようやく弥太郎の日記の話に戻ります。この先、少し間を置いて(まだ準備が整っていないので)、noteに別アカウントを取り、弥太郎の長崎時代の日記を紹介しようと考えています。イノベーターの青春時代を、当人の視点を介して知る珍しい機会となるはずです。また、前述の通り日記自体に魅力があります。どれだけの人が興味を抱くか、はなはだ疑問ではありますが。このアカウントも続けますので、始めたらお知らせします。

 トップ画像は「横浜波止場ヨリ海岸通異人舘之真圖」三代目歌川広重、1870年、ハーバード美術館/アーサー M. サックラー博物館、ウィリアム S. リーバーマン遺贈


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