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明治維新期、京都の町衆が小学校を作った話

 京都の町人が幕末維新期に書いた日記を読んでいて、明治改元後間もない時期に、小学校をめぐる記述がたびたび出て来ることに興味を惹かれました。日記では、度重なる地震の被害に続いて、京都が政変の中心地となったため、テロや内戦、治安の乱れや火災といった記載に事欠かず、明治になってもその余韻があったことが分かります。

幕末維新京都町人日記-高木在中日記-』内田九州男、島野三千穂編、清文堂出版、1989年。高木在中は京都四条大宮で質店、米商いを行っていた商人。上図は小学校開校時の町の区分けを示す(一部)。「フィールド・ミュージアム京都」より

 高木在中の日記では、明治元年10月29日に「組町寄合。小学講」とあるのが小学校に関する最初の記述で、翌年11月7日に「稽古初メ」となります。日記の他の記述から、小学校は府庁から町衆への下達と資金援助で作られることになったと推察できるのですが、それにしても江戸幕府崩壊後すぐ、政情不安定な中で学校の整備を始めたことに驚きました。

 新時代には教育が重要だと見抜いた府のトップと、その意図を理解して実現する力を持つ庶民が京都にはいたことになります。京都は寺子屋などで教育が盛んだったようですし、五箇条の御誓文(慶応4 年(明治元年) 3月布告)の「官人、武人から庶民に至るまで、それぞれ志をとげられるように」を実現する施策なのかもしれない……などと考えるうち、大学卒業後数年間京都に住んでいた昔のことが思い浮かんで来ました。

 時折、京都の地域の話題として、TVや新聞で「最古の小学校」が取り上げられるので、当時は特に関心がなかったものの、京都の人は小学校を大事にしているようだと印象に残りました。また、会社の同僚から、小学校の校区云々という話を何度も耳にしたことも甦って来ました。大人が小学校の校区について語る、というのはあまり聞いたことがなかったので、不思議だと私は感じていたのです。

 そうした古い記憶と、在中の日記の内容とが突然結びついたのでした。教育や京都の歴史は門外漢なので、まずはネットを使って調べます。Wikipediaの「番組小学校」の項に京都の小学校創設についてまとまった記載があり概要がわかりました。しかし、中に「1870年(明治3年)正月、各番組小学校において「稽古はじめ」式が催され、授業が開始された」とあり、日記の「稽古初メ」の日と矛盾しています。

 ここで、私としては初めてAIを活用。まずBingAIを使って驚愕しました。答えがうまくまとまっているのは後で使ったChatGPTと同様ですが、Bingでは参照サイトが脚注兼リンクになっていて、情報の正確さを確かめられるのです。この際、参照サイトに上記Wikipediaが含まれないのは、誤った情報が含まれているとBingが判断した結果なのか……だとしたら凄かったのですが、再度検索すると、そうではないと判明。今のところ、そこまでの優れものではないようです。

 検索の結果も参考にしつつ、日本の小学校の始まりである「番組小学校」創設の経緯をまとめてみます。
① 京都では江戸時代以前から町ごとの住民自治の仕組みがあり、それが明治元年に「番組」として再編成される(在中は上下かみしもを着て府庁に赴き、番組に関する布告を受けている)。
② 京都府は各番組を校区とする小学校建設を布達、明治2年5月21日に最初の二校が開校した。政府による学制発布(明治5年)に先駆ける日本最初の小学校。
明治2年中に各番組ごとの小学校が完成した。Wikipediaなどにある「稽古はじめ」は、翌3年年初に64全ての番組小学校がそろって稽古を始めたことを指しているようだ。
④ 学校の建設は、府からの貸与はあったものの、各番組が資金を拠出して行い、運営も地域の町衆が行った。句読、諳誦、習字、算術が主要科目。
⑤ 各小学校は町の寄合所を兼ね(在中の日記には、開校後何度も小学校で寄合をしたことが記されている)、区役所や交番のような役割も果たした。

 番組小学校の校区は、京都の伝統的な町の住民組織という土台の上に成り立っており、小学校はいわば「町の統合の象徴」でもあったわけです。「小学校の校区」という言葉に、そうした他地域にないニュアンスが含まれていることを、私は無知ながらに感じ取っていたようです。そこには、国が学制を定めるより三年先駆けて小学校を創建したという誇りもこめられています。

 Bingが私に示した最も信頼の置ける番組小学校についての情報源は、京都市学校歴史博物館(平成10年開設)のサイトでした。この博物館の存在も、小学校の歴史が京都の誇りであることを示しています。サイトによっては、小学校創建を京の町衆が自発的に行ったと読み取れる表現をしている場合がありますが、「上意」なしに、1年の間に64の小学校が一斉に開校することはあり得ませんから、これは少し勇み足です。

 産経新聞2017年10月20日の記事では「寺子屋を営む教育者、西谷淇水にしたにきすい」の提言で、「市民有志、当時の京都府を合わせた3者間の協議を通じて小学校設立の青写真が描かれた」とあります。

 小学校を地域のコミュニティ・センターも兼ねて作るというのは、実に巧妙な施策だったと私は思います。江戸時代に既に水準の高い庶民教育が行われ、町衆が教育の意義を深く理解していたことは、番組小学校創設の前提でした。そこに、伝統的な地域のコミュニティを維持する機能を持たせたことは、町衆が積極的に資金提供や建設、運営にかかわっていく強い動機づけになったのに違いありません。

 町衆がどれほど熱心に小学校建設、運営にかかわったか、在中の日記の小学校をめぐる記述の多さからも明らかです。在中は人望のあつい地域の指導者格の町人でしたが、京都でも無名の一人物です、そんな在中の教育への情熱や日記の記述からうかがえる教養の高さは、つまりは京都の有力町衆の水準を示すものです。私は、在中が創設後の小学校で教えたこともあったのでは、と日記の記述から推察しています。

 ……実は、在中の日記から紹介したかったのは、小学校以外のことであって、これはプロローグのつもりでした。が、例によって、長くなり過ぎました。そもそも、なぜこのところ幕末を中心に江戸時代や維新期の日記を読んでいるのかについても書かないまま、ここまで来ています。次回以降(があれば)、書くつもりです。


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